父も母も元気だった頃は週末(金曜日)に仕事が終わると同僚や友人と遊びに行くこともあった。休日祭日は釣りやリバーウォッチングにドライブと生活にも趣味をするにも余裕があった。しかし親の具合が悪くなり自分も低収入になると出来ることやれることが限られた。その後も親の介護生活になり釣りができる機会が減った。介護の合間の限られた時間に釣りや家の買い物のついでにチョイドライブぐらいをするのがやっとになり、やがて釣りをする暇も余裕もほぼ完全になくなった。父に先立たれ残された母が気の抜けてうつ病などにならないように介護の合間にチョイドライブついでに母をなるべく外に連れ出すようにした。母は春からはじまる花の季節や新緑を見るのが好きだった。春からはじまる梅、桜、カタクリ、ツツジ、紫陽花、ヒマワリ、彼岸花、コスモスと花を見る母が嬉しそうな顔をしている姿が今も忘れられない。上記の花たちだけではなく道わきに咲く野草の花についても「あの花は何ていうんだろうね?」とよく母と話をしたものだ。花だけではなくかつてルアー釣りをはじめた頃に以前住んでいた家の近くにある川(自分の釣りのホームグランド)に春になるとマルタ、ニゴイが多数遡上してくるのだが、それを母に見せに連れて行ったこともある。その時遡上してきた多くのマルタ、ニゴイが堰を超えようとする姿に母は驚き「これ全部魚?」と私に聞いてきた(今はカワウの食害で見に行ってもそのような光景は完全になくなったが)。今年の晩春ハクレンの遡上を見に行ったが母が数多くの巨大なハクレンが堰を超えようとする姿を見たらきっと驚いたに違いない。そんな母も父の後を追うようにわずか一年ちょっとで世を去った。後で知らされたが父が亡くなった時に母は長くて二年という状態だったと(癌だった)。父が亡くなった時には母は体こそ弱っていたがまだ元気はあったのだが年が明けたぐらいから徐々に弱りはじめた。それでも余命二年とは知らない私は神社に「元気になりますように」「元気が出ますように」と祈願にも行き母が好きな花たちを見せに母に手を貸しながら連れて行った。亡くなる少し前まで花を見る母の嬉しそうな顔を思い出すとあまりにも急な別れであった。余命二年と言われていたが亡くなる少し前の検診では「持ってあと二か月。覚悟はしておいた方がいいよ」と言われたとこれも後で聞かされたが私に心配させないため?悲しませたくないため?一部の身内だけしか聞かされていなかった。父に先立たれ体の弱っていた母のため祈願したり母の嬉しそうな顔を見るのが好きだったので少しでも元気が出るように母が好きな花を見せに連れて行った日々は何だったのだろう?と今も思う。今長い介護生活と相次ぐ両親の死で体こそ自由にはなったが釣りをする余裕などなくなった。ほんの少し時間を見つけてチョイドライブやリバーウォッチングや生き物観察をするのが精一杯だ。ただ生き物は、たとえば魚は釣りやガサガサでもやらない限り見ることはできないし昆虫も基本探さないと見つけないと出会うことはない。しかし最近気がついたのだが梅や桜などの花と違い種類はいろいろあれど車で走っていると道端にいろいろな野草の花をみかけるのだ。おそらく環境悪化に強い外来種が多いのだと思うが信号待ちや駐車場に車を止めて乗り降りする時にふとこういった野草の花たちの姿を目にする。魚を釣りに行くことや昆虫をわざわざ探しに見つけにいくようなこととは違い身の周りに咲く野草の花に目が行くことが多くなったように思う。そして花咲く季節に花を見に行った時の母の嬉しそうだった顔と今ふと道端に目をやるとけな気にあるいは逞しく咲く野草の花を見ると東日本大震災の復興支援歌だった「花は咲く」の歌詞を思い出す。

♪花は 花は 花は咲く♪

近年外来種の野草が目立つようになったが道端に咲く野草は見た目も綺麗で母が今も生きていたらきっとこう言ったに違いない「この花は何ていうんだろうね?」。

 

福寿草

河津桜

ソメイヨシノ

八重桜

芝桜

藤の花

梨の花

菜の花

ツツジ

カタクリ

レンゲ

紫陽花

ヒマワリ

彼岸花

そば畑

コスモス

紅葉

野草たち

かつてマルタやニゴイの遡上時期に堰を超えようとする無数の数を見て母は驚いていたが魚自体の大きさが遥かに大きい巨大なハクレンたちが堰を超えようとする光景を母が見たらもっと驚いたことだろう。母に見せたかった。