床に落とした食べ物、どこまで拾って食べていいか?の考察(携帯読者用) | 新・バスコの人生考察

床に落とした食べ物、どこまで拾って食べていいか?の考察(携帯読者用)

※2008年・12月8日の記事を再編集

 先日、学生時代の友人と食事をしました。近々結婚するらしく、奥さん同伴で、食事に誘ってくれたのです。

 3人で、しゃぶしゃぶを食べました。

 店を出たあとは近くの喫茶店に入り、他愛のない話で盛り上がります。小腹の空いた僕はアメリカンドックを注文したのですが、手にしたアメリカンドックを、床に落としてしまったのです。

 そこで、拾って手で軽く払い、「まあ、汚くないか」と言って食べ始めたのですが、僕の前に座っていたその友人が、僕を怒鳴りつけたのです。

 「お前、汚いから食うなよ!」

 そりゃね、たしかに汚いですよ。僕も食べるのに躊躇しましたよ。

 ですが、そんなに汚れたわけではありません。少なくとも、人に怒鳴られる筋合いはないんですね。

 なのに僕をニラみつけて、こう続けました。

 「お前、どういう教育を受けてんの?」

 これはカチンときましたよ。しかも、「さっきも言わなかったけど、お前はしゃぶしゃぶでも、畳に落とした肉を鍋に入れてたやろ。あれ、ほんまはイヤやってんで」と、本気の説教を始めたのです。

 嫁も嫁で、「世の中にはこういう人もいるから!」とばかりに、哀れんだ表情を浮かべてきます。「下民のすることだから!」と言うかのごとく、貴族気取りで、僕を下に見てきやがったのです。

 こんなもん、逆に訊きたいですよ。嫁がいる手前言葉を飲み込んだものの、「お前のほうこそどういう教育を受けてんの?」と、僕は言いたいのです。

 この2人は、「落とした食べ物は汚いので食べてはいけない=卑しい」という理屈なのでしょう。

 ですが、僕としても単なる卑しさからではなく、「床に落としたぐらいで捨てるなんて、食べ物を粗末にしている」という、ちゃんとした意見があるのです。

 だいたい、しゃぶしゃぶなんて、火を通したら一緒ですよ。仮に生で食べる肉だったとしても、1人前1200円もする肉など、落としたぐらいで捨てるわけにはいかないのです。

 もちろん、どちらが正しいかは、意見が別れるところでしょう。

 僕としても、この場は拾い食いしたものの、その場の状況や食べ物の種類によっては、態度を変えてしまいます。諸所の条件によって対応が変わってくるので、この問題は非常に奥が深いのです。

 そこで今回は、「床に落とした食べ物、どこまで拾って食べていいか?」の考察です。

 床に食べ物を落とした場合、食べるかどうかを、1つの判断基準だけで決めることはありません。たくさんの判断基準が複合的に絡み合い、脳内の会議を経て、総合的に判断するのです。

 そして、その「判断基準=脳内会議の論点」は、以下の10個に大別されるでしょう。

 まずは、この10個の論点について、簡単にご説明します。

論点①「自分の家の中なのか、外なのか」
 落とした場所によって、判断は変わってきます。自分の部屋、家の台所、ファミレス、屋台……。

 これは、「自分の家の中なら食べるが、それ以外では食べない」という意見が多いはずです。自分の家なら汚くないので食べる、ファミレスなら床が汚いので食べない、という人が大半でしょう。

 ですが、ファミレスの床は無理でも、居酒屋の座敷に落としたのであれば、食べる人が多いのです。

 ファミレスのように靴で踏んではいないものの、誰もが足でうろついているので、汚いという意味では同じなのに食べるのです。ほかにも、花見のゴザの上に落としても食べる人は多いので、「外だから絶対に食べない」と言い切ることはできません。

論点②「落とした床はどのような状態(形状)か」
 床の状態や形状で、判断は変わってきます。汚れているかどうかを確認し、フローリングやコンクリートの上なら食べる、カーペットや畳の上なら食べない、と決めるのです。

 ですが、汚れているかどうかを、目視で判断することはできません。フローリングのほうが清潔なイメージがあるのでしょうが、表面のツヤにだまされているだけで、カーペットと大差はありません。落ちるものは落ちているので、目立つか目立たないかだけの話なのです。

 もっと言えば、ピカピカの床でも、オッサンが歩き回っていれば、汚く感じられます。一方、ボロボロの床でも、歩行者の多くがハイヒールを履いた女性だった場合、どこか清潔に思えてしまいます。

 清潔さの正確な判断は難しく、突き詰めれば、この議論もナンセンスでしょう。

論点③「落とした食べ物の表面はどうなっているか」
 これは、「湿っているなら食べない、乾いているなら食べる」という人が多いはずです。

 表面が濡れていると、いろいろなものが付着していそうで、食べる気がしません。一方、乾いている場合は、口でフーをしたり、手で払えば、なんとか食べられるのです。

 ですが、たとえば、お菓子。

 ポッキーだと、チョコの部分は湿っているのに、クッキーの部分は乾いています。かといって、チョコのほうを捨てれば意味がないので、対応に困るのです。

 おかき1つとっても、海苔のついたおかきは海苔が湿っているので無理だが、海苔を取れば乾いているので食べられる、濡れおかきは微妙に濡れているので無理、などと多種多様。なにより、乾いているものでもホコリがつく場合があるので、この論点もあまり意味がないでしょう。

論点④「床についたのは、どの部分か」
 床についた部分の違いで、判断は変わってきます。

 それが顕著なのが、トーストです。

 焼いただけの状態だと食べるのでしょうが、バターを塗って、塗った側が下に行った場合は、躊躇してしまいます。

 ですが、バターナイフでバターを削除し、新しく塗って食べるという方法もあります。ばい菌が気になるのであれば、殺菌する意味で、もう1度軽く焼いてやればいいのです。

 ほかにも、お寿司。

 床についたのがシャリであれば、ネタのほうは食べられます。シャリだけ捨てれば、それは刺身なのです。

 プリンも、床についた1番下が汚いだけで、そこから上は汚くありません。ソフトクリームのクリームを全部落としても、上の部分にコーンをあてがって載せれば食べられるので、とにかく、いくらでもやり方があるのです。

論点⑤「値段はいくらか」

 落としたものが高級品だと、キレイごとは言ってられません。お寿司でも、1貫1000円ともなると、簡単にあきらめるわけにはいかないのです。

 「床についたシャリ数十粒を削除して、そこから上を食べる」

 こんなことも、まんざらではありません。ネタのほうが床についても、「大将すいません、このトロ、表面を削ってもらえません?」とお願いして、ネタの薄くなったお寿司を食べることもできるのです。

 ほかにも、アイスクリーム。

 スプーンに力を入れすぎて、削った部分を床に落としてしまうことがあります。このとき、100円のスーパーカップなら捨てるものの、250円のハーゲンダッツなら話が違ってきます。それこそ、「このひと口だけで30円はするな……」と考えながら食べるので、簡単には捨てられないのです。

論点⑥「自分の好物か」
 好きなものなのか、嫌いなものなのかによっても、判断は違ってきます。大好物であれば拾ってでも食べるでしょうし、嫌いなものであれば、むしろ助かった、てなものなのです。

 とはいえ、たいして好きではないものでも、お腹が空いていると、話が違ってきます。空腹だと何でもおいしく感じられるので、場合によっては、拾ってしまうのです。

 ホットドックの外側のパンを落としたとします。

 残ったソーセージを食べることはできるものの、それだけだと味気ないです。たいしておいしくないパンの部分でさえ、お腹が空いていれば思わず、拾ってしまうのです。

論点⑦「自分は金持ちか」
 お金のあるなしが、少なからず影響を与えます。

 お金のある人は、新しいものをもう1つ買う、という選択肢が出てきます。一方、貧しい人は、その発想があるにはあるものの、実行に移すことができません。「これ、どうやったら食べられるかな……」との考えに集中してしまうのです。

 ですが貧乏でも、その日にパチンコで勝っていたら、「今日だけは卑しいことはやめておこう!」と、妙に背中を押されます。テンションが上がっているので、変に品を出そうとするのです。

 貯金、給料、その日に所持しているお金の量……。お金の質や量がその日のテンションと絡み合い、これまた簡単には答えを出せません。

論点⑧「その食べ物は、誰が作ったのか」
 落としたのが彼女の初めての手料理だと、簡単には捨てられません。本意ではなくても、「俺、汚れとか気にならないから!」と言って、普通に食べるでしょう。

 もちろん、彼女が「汚いから、やめとき!」と言ってくれるのでしょうが、「食べるのが紳士なのかな、食べないのが紳士なのかな=どっちが嫌われないか」と悩んで、答えが出ないのです。

 父親が魚を釣ってきて、裁いてくれたとします。

 「すごいタイを釣ってきたぞ!」と自慢されたのに、「親父ごめん、落ちたから捨てるわ!」とは言えません。「お前のために釣ってきたから!」と煽られて全部落としてしまったら、拾って普通に食べるでしょう。

 同じ理由で、お世話になっている上司にごちそうしてもらったとき。

 このときもめちゃくちゃ悪い気がして、拾って食べずにはいられないでしょう。

論点⑨「プライドはあるか」
 対人、対食べ物だけではなく、この問題は、自分との戦いもしいられます。

 「落ちたものを、果たして食べていいものか……」

 哲学的な悩みに直面し、人としての本質的な矜持が問われるのです。

 誰もが拾い食いに対して、少なからずの卑しさを感じています。「人間としてありなのか?なしなのか?」と、自問自答せずにはいられないのです。

 ですが、捨てないというプライドも、またあります。

 冒頭でご紹介した僕のように、食べ物を粗末にしないというのも、ある種のプライドでしょう。「プライドとしてどちらが正しいのか?」と悩んで、答えが出ないのです。

論点⑩「誰と一緒にいるか」
 一緒にいる人の種類によって、判断は如実に違ってきます。

 気心の知れた友人の前だと、躊躇なく拾い食いできるものの、初対面の人の前であれば、「変な奴と思われるかもしれない……」と考えてできません。とりわけ、初デートともなると、変に自分を着飾って、拾いたくても拾えないでしょう。

 ですが、一緒にいる恋人が苦労人だと、話は違ってきます。

 捨てると、「この人、落としたぐらいで捨てるんだ……」と、逆に引かれる可能性があるからです。「食べ物を粗末にしたらあかんで!これぐらい食べないと!」と言って食べたほうがプラスに働く可能性もあるので、どうしたらいいかわからないのです。


 このように、どの論点も一長一短です。

 「床に落としたものは一切捨てる!」と豪語する人でも、「薬やったら飲むけどな!」と、筋の通らないことを言う人も多く、何が答えかわからないんですね。

 そこで次に、「どう優先順位をつけるべきか」を問題とします。

 上記の論点に優先順位をつけて脳内会議をし、決定を下すのです。

 ちなみに僕の優先順位は、以下のとおりです。

 「誰と一緒にいるか>その食べ物は、誰が作ったのか>値段はいくらか>自分の好物か≧自分は金持ちか>床についたのは、どの部分か≧落とした食べ物の表面はどうなっているか≧落とした床はどのような状態(形状)か>自分の家の中なのか、外なのか>プライドはあるか」

 誰と一緒にいるかが1番重要で、「親しい人の前だと食べる。親しくない人の前だと食べない」と決めておけば、ほかの論点は、すべて劣るのです。

 これは、鼻クソをほじる心理に似ています。

 周囲に人がいなければ平気でほじるくせに、人がいるとほじらないのと同じで、人の目を気にしているだけでしょう。

 「拾って食べたら、変な奴だと思われないだろうか……」と思うにすぎず、よっぽど汚れた床でもないかぎり、本音では、誰もが食べたいと思っています。少なくとも、好物や高価なものはそうで、人の目を気にするかしないかだけの話でしょう。

 翻って、1番優先順位の低いプライドの問題は、自分の問題にすぎません。卑しいとか、食べ物を粗末にしないなどは「外向けの上品な感想」にすぎず、「もったいない!」「食べたい!」という自我には勝てないので、優先順位はどうしても低くなるのです。

 ですが、「親しくない人の前だと食べない」と決めたところで、それが1貫5000円のお寿司ともなると、判断が鈍ります。矛盾するようですが、本当にすべてが複合的に絡んでくるので、突き詰めると、優先順位をつけることもナンセンスになるのです。

 こう考えると、もう答えが出ません。正解を出すことなど不可能で、この問題は、完全にカオスなのです。

 そこで熟慮に熟慮を重ねた結果、僕はこう結論付けました。

 「深く考えるな!瞬間的に出た本能に従え!」

 もう、これしかないです。

 上記の論点を反面教師に、あえて深く考えないのです。意識的に何も考えないように努め、脳に最初に出た、本能そのものに従うのです。

 もちろん、状況に応じて、判断するやり方もあります。

 ですが、正解がない以上、「絶対にこうするべきだ!」と決めてかかるのはリスキーで、どの道、100%納得の得られる選択肢にはなりません。考えるだけムダで、自分の本能に従って行動することこそが、「ベターベスト」なのです。

 今回の考察は、「子供にどう教えるべきか」という問題も含んでいます。

 大人は笑い話で済むものの、突き詰めれば、子供の教育問題にかかってくるのです。

 今年の5月、とある小学校の給食時間に、教師が、生徒が床に落としたパンの表面を手で払って、生徒に渡しました。

 すると生徒の親が、「家では畳に落としたものも食べさせないのに!お腹を壊したらどうするんですか!」と抗議し、教師がうつ病にかかってしまったのです。

 この問題に際して、捨てる派は「お腹を壊してはいけない」という理屈で、食べる派は「食べ物を粗末にしてはいけない」という理屈で、議論を戦わします。ですが、くり返し申し上げるとおり、これは神学論争と同じです。答えなどなく、自分の意見こそあるものの、断は下せないのです。

 そこで、答えのないこの問題に答えを出すために、子供に対してこう教えるべきだと、僕は考えます。

 「お前、自分で考えろ!」

 床に落ちたパンをどうするか、子供自身に考えさせるのです。

 「汚いから、お腹を壊すかもしれないな……。でも、食べ物を粗末にするわけにはいかないしな……」

 こんな感じで、本人に考えさせるのです。

 どの道、拾い食いでお腹を壊すことなどありません。「はしたない!」「親の顔が見てみたい!」と人に思われたとしても、確固たる考え方に基づいた教育なので、それは恥ずかしいことではないでしょう。

 もちろん、小学生の子供に、判断能力などありません。暴論は承知の上です。

 ただ、答えがないのであれば、年齢や立場を問わず、自分で考えさせるべきだと思うのです。なによりそれは、「何かをしたとき、責任を取るのは自分だから!」と、教えることにもなります。子供が成熟するにあたり、1番教えなければならない優先順位はこれで、大人と子供の違いは、「責任を取るか、取らないか」ということなのです。

 僕はこれから、瞬間的に出た本能に従って、拾い食いの有無を決めます。同時に、自分の子供には、露骨な行為を除いては、「自分で考えろ!」と教えることにします。

 ちなみに、この記事を書いている最中に、手にしたチョコレートケーキの一部分を、床に落としてしまいました。生クリームが大量にある部分で、僕の本能が「食べろ!」と伝えてきました。

 ですが、失敗でしたよ。

 なにしろ、おもいっきり陰毛が付いてましたから……。