今日、会社のメールの中で「このように進めるのがよいと思います」といった文章を見た時、ふと「この人は「考えた」のではなく「思った」のか」と思った。


私は仕事をしている時に、こう進めるべきだとかこうしたいと「考える」ことはあっても、そう「思う」ことはない。


私は、「思う」とは、ふと自分の中に浮かんでくる感情や感覚に気付くことだと考えている。

「おいしい」や「嬉しい」と思うことはあるが、「こうしたい」や「こうすべきだ」と思うことはない。


最近、仕事が終わらず夜まで働かなければならない日が続いている。そんな日々を私は「この経験がいつかきっと役に立つはずだ」と本気で考えながら過ごしている。だが、私は同時に「つら過ぎる〜」と思っている。

もし、「考える」私が存在しなかったら、「思う」私はすぐに仕事を止めて美味しいものを食べて好きなアニメを見て楽しく過ごすはずだ。


私は能動的に考え、受動的に思う。

では、「思う」ことを能動的に行っているのは誰だろうか。考えてみたが、「私」としか言いようがない。だがそれは「考える」私とは完全に異なる存在である。


しばらく考えて何とかして能動的に「思う」私は誰なのか(どこにいるのかの方が正しいか?)、言葉にしようと思ったができなかった。

あまりにも「思う」ことが感覚的で、ある感覚がふと浮かんでくるとしか表現できない。


そう考えると、森羅万象全てのものが「思う」のだとしても不思議ではない。人は「思う」自分を言葉を使って表現することができるので、たまたま他の人も「思う」らしいことに気付くことができる。だが、人以外の多くのものは「思う」ことを伝える言葉を持たないので、「思っている」ことに気付くことができない。


ここまで考えて「人は考える葦である」という言葉をふと思った。(考えていなかったので思ったとしか言いようがない)

気になったので調べてみると、これはパスカルの言葉らしい。パスカルは著書の中で「人間は自然の中では葦のように弱い存在である。しかし、人間は頭を使って考えることができる。考える事こそ人間に与えられた偉大な力である」と書いている。


違くね?


葦も「考える」植物である可能性はある。「思う」ことを伝えるための言葉を持たないだけで「考える」ことができないと断定するとは、随分驕った人間である。

これ、今までの話と論点が違う気がする。


ここまで書いていてまとまる気がしないので、最後に考えたことだけ記載しておく。

「思った」ことをそのまま言葉にしてしまう人間は最悪だ。「考える」ことができる人間に生まれてきているのに、「思う」ことをそのまま言葉にしてしまう人間になるくらいなら、「考える葦」となった方がはるかにマシである。


最後にわざわざ誰かを傷つけてしまうようなことを書きたいと思った私も「考える葦」以下なのだろう。








と、あっしは思いました。