昨日、beautiful thingsという歌を海外の少年が路上で精一杯歌っている動画を見て、その真っ直ぐな歌声に心を打たれた。

なんとなく知っていた歌だったが、調べて聞いた見ると歌詞も本家の歌声も胸に迫るものがあり、ずっと聞いている。


最近読んだ本の中で、気持ちを込めて話をする人が「言葉と感情の距離が近い」と表現されており、とても素敵な表現だと感じた。

上で述べたbeautiful thingsを歌う少年の声もまさに言葉と感情が近く、それが人の心を打つのだろうと思った(前回のブログを書いたせいで「思った」と表現することに躊躇いがあるが、いちいち「考えた」とするのも違和感があるので見過ごしていただきたい)。


私は、言葉と感情の距離がものすごく遠い。いつ頃からかわからないが、言葉に感情を乗せることができなくなっているようで、私が話しても「嘘だ」と本気で言われて少し悲しい気持ちになること少なくない。少し前、友人に「石原はずっと作り笑いしていると思っていた」と言われた。あまりに悲しい人間ではないか。

私のボケたがりな性格も望まない嘘判定の一因になっているとは思うが、それだけが原因ではないと知っている。


なぜなら、実際に言葉に感情が乗っていないことが多々あると自覚しているからだ。

私自身、感情の乗っていない言葉を感情が乗っている風に話すことができていると思っていたのだが、割とバレているらしい。


なぜこうなってしまったのか、原因はわかっている。私の中で、「人にネガティブな影響を与える言動はすべきではない」という信念のようなものがまっすぐ育ちすぎてしまったからだ。

私自身、元々の性格は良くない人間と思っているが、後天的に「ネガティブな発言はよくない」という考えが育った。すると、感情がネガティブでも、表面的にはポジティブなことを言う我ながら受け入れづらい人間が出来上がってしまった。

さらに良くないことに、「ネガティブはダメだが相手に伝わらなければいい」と自身の信念を不当に拡大解釈することで、京言葉的なイヤミを言ったりするのでタチが悪い。


また、少し前までは「ネガティブな発言は良くない」と同じくらい「多様性は受けいれられるべきだ」と強く思っていたこともあり、そもそも意見が言いづらくなっていたりする。

特に誰かの行動・言動・判断を評価する時に言葉に詰まることが多々ある。

具体的には、「彼が〇〇と言っていたが、石原どう思う?」と聞かれて、「誰がどう感じようと受け入れられるべきだし、発言の場におらず言葉に込められた意味を正確に把握していない私は評価できない」と言った趣旨のこと喋ったりする。きもすぎる。私ならこんなやつには2度と話しかけない。

多分もう1人の私が同席していたら「黙ってお前の意見を言えよ、と言いたいけれどそう言った意見も受け入れられるべきなのか…」と言っているに違いない。


さらに最近は少し進んで、「多様性は受け入れられるべきだが、多様性は個人の中に宿るものではなく、私が個性的であることが真の多様性である」と思うようになってきている。(きっかけは朝井リョウの「スター」と言う本なので、興味がある人は読んでみて)


多様性を全て受け入れようとしていると、世間と自分の間の境目が消えて、無個性な人間になってしまう。これを危惧した今の私は、「個性的でありたい」と思っている。つまり、「私自身が思ったことを口にすることが、多様性そのものなのだ!」と考えている。


そう、今の私は一周して言葉と感情の距離が近い人間になるチャンスを掴んでいる!ぐちゃぐちゃした思考から解き放たれ、「思ったこと言っちゃおうよ!」と思えている!!結構嬉しい!


ただ、先述の通り、私はもともとあまり性格が良い人間ではないので、今までは口に出していなかったような少しキツイことも言ってしまうのではないかと思う。


だから先に伝えておきたい。

もしあなたが僕と話をしていて、僕がキツイことや嫌なことを口走った時には、ムカつくこともあるだろうけれど、「やっと自由になったんだな!」と私の成長を喜んでほしい。全力で抱きしめてほしい。



以上、駄文でした(ムギュウ)