デニーズに行った時、「身だしなみの多様化はじめました」というポスターが貼ってあるのが目に入った。髪色を染めることやピアスをつけることを認めるようになったらしい。
思えば私に200gのステーキを運んでくれた女性の店員の髪色はピンク色で、言われてみれば今までファミレスでそう言った店員さんを見ることはなかったように思う。
ただ、どうにも多様化を「はじめる」という表現に違和感があった。「むしろ何故今までお前が多様化の手綱を握っていたのだ」と感じる。「多様化を始めた」というのは「今までは理由もないのに抑圧していた」ことの表明であるのだから、ポスターを作るのであれば、「理不尽な抑圧をやめました。今までの悪行について心から謝罪し、悔い改めます」と書いて、頭を下げている偉い人の写真を載せた方がいい。
おそらく、「多様化をはじめる」という文言を考えた人は、自分の懐の深さに満足し、ポスターを見るたびに「私が多様化を始めてやったんだ!」と悦に浸っているに違いない。多様化を「始める」と表現する人間は、今まで様々な権利を抑圧していた人間と同じはずだ。
って友達が言ってました。僕は思ってません。
今の時代において、ある人が特定の事象に対して、「まあ多様性の時代だからな」と発言したとすれば、それはほぼ間違いなくその事象がその人の中の「多様性」の枠組みからは外れていたことを意味しているだろう。
多様性という言葉は、時に受け入れることを諦めた人が、理解できない価値感を一言でまとめるためのゴミ袋のように使われることがある。
かくいう私自身、多くのことに寛容であろうと努力はしているが、どうしても自分ではカテゴライズすら難しい価値観が存在する。
私が受け入れ難い価値観に触れた時は、何か発言しようとすると否定のニュアンスが混じってしまうことを自覚しているので、大抵押し黙っている。ただ、その様子は他の人から見た時に明らかに不満を抱えた人のそれだとバレているようだ。
一度、私の友人から「私の友達が体にほくろのようなタトゥーを入れたいらしい」という話を聞き、ただただ動機が分からず私の理解を超えていたので押し黙っていたところ、「考えが昭和的だ」と言われ腹を立てたことがあった。
取り調べで「黙ってるってことはお前がやったんだろ!」というのは明らかに憲法違反だというのに、多様性の時代においては黙ることすら否定と解釈されてしまうのかと何とも言えない気持ちになった。
読み返してみて、多様性云々の前にこれを書いたやつは確実に性格が悪いだろうなと思いました。
この可愛さに免じて許してください。
「オネガイッ!」