ルッキズムについて、これまでいくつか記事を書いてきたが、今日はまた別の視点から、外見で人を判断することについて、考えたことをまとめてみる。

 

 

 

基本的に、他者を尊重しようとするのなら、外見「だけ」で人を判断するのは良くない。

その人の個性や才能や性格や人間性は、人相や服装といった外見的要素だけでなく、立ち居振る舞いや使っている言葉、話し方や他者とのコミュニケーションの仕方、習慣や信条などなど、様々な側面に宿っているもので、それらを注意深く観察してやっと少し理解できる、というものだと思う。

 

しかしながら、それを実践しようとすると当然のことながら時間がかかる。

もう何年も付き合っているから、この同僚のことはいい面も悪い面もお互いによく知っているよ、というような間柄になるには、共に過ごす機会や時間が相応に必要だろう。

 

仕事や立場に共通点が多い相手ならまだいい。

社会人ともなれば、より断片的かつ表面的な付き合いで終わる人もたくさんいる。

上司・部下・顧客・隣人・遠い親戚etc…

 

また、例えば芸能人や政治家のように、直接コミュニケーションをとることはなくても、消費行動や投票行動という形で関わる他者も存在する。

 

そうした人々、つまり、継続的で日常的な接点を十分にもつことができず、自分との関係性が断片的・表面的あるいは間接的にならざるを得ない相手について、その人を判断する情報を一番多く表現しているものが「外見」ということになるのではないか。

 

加えて、近年では、より「多様性」という言葉が強調され、実際、外国人は増えたし、価値観や生活様式にも個人差が大きくなっているし、テレビ・新聞等の旧マスメディアの力が弱くなってメディア体験も多様化したし、世代間で常識や文化や言葉も共有できなくなっているし、要するに誰にとっても「自分と同じような人」がどんどん少なくなって、「自分と違う人」がどんどん増えているというのが実態そのものになっていて、そういう人間同士で相手の情報を得ようとすると、どうしても「見た目」に頼らざるを得なくなる。

 

そういうわけで、実は外見でしか他者を判断するための情報を得られない、という現実が一方であるのではないか。

そしてまた、自分自身を他者に理解してもらうにも、表現できる回路・他者と接触できるチャンネルが、外見以外になくなってしまっているのではないか。(だから中高年男性が孤独になりやすいのではないか、という気もする。)

 

共同体を失った人々の「多様性」は、誰かを理解したり誰かに理解されたりすることをより困難にする条件なのかもしれない。

ここ最近、そんなことをぼんやり考えながら、電車に乗っています。