※ネタバレアリ
前回中盤のシナリオをベタ褒めしたが、最後の仕上げはどうか、じっくり味わいながら進めている。
もうすぐラストダンジョンだと思う。
「真実」がもたらした効果によって、シナリオは一気に「勇者とその仲間たちが世界を救う」というRPGの王道へと変形。
なんというか、飛行形態から二足歩行形態へとトランスフォームしたロボットのようだ。
群像劇が収まるべきところにそれぞれ収まっていて、うまくできてるな、と感心してしまった。
あとは加速。ラスボス討伐へのラストスパートのフェーズに入っている。
ここでいう「真実」がもたらした効果とは…
①二重人格気味だった「村娘」と「復讐の鬼」が統一されたこと
②ライフィセットが「一人前の男」に成長したこと
③あまり仲の良くなかったパーティーが「仲間」として成熟したこと
※ロクロウやアイゼンは自分の利害を優先する一方で義理堅く筋を通すし、エレノアは生真面目な善人だ。
仲が悪かったのは結局ほとんどマギルゥのせいなのだが、マギルゥの過去や動機も分かり、世界の敵を打倒するという共通の目的に向かってようやく「仲間」になれたな、という感じ。
ただ、それをもたらした「真実」の内容と追い詰められるベルベットの描き方についてには、いささか不満が残る。
正確に覚えていないが、マギルゥのセリフにこんなのがあった。
(アルトリウスが義弟のラフィを生贄にし、義妹を喰魔にしたことについて)
そうまでして救いたい世界があったのか
そうまでしないと救えない世界があったのか…
この問いの答えは「両方」なのだが、「そうまでしないと救えない世界」というのがそもそも問題なのだ。
「穢れ」と「業魔化」の仕組みは、人間が人間であるがゆえに原理的に避けられないものであり(だから人間から意志を奪う「沈静化」でしか解決できない)、アーサーをはじめとしたまともな人格者は、その仕組みの中で生きることに必然的に絶望するように仕向けられている。
そして、セフィロスが闇落ちするのと同様、幸福の絶頂の中で一瞬にしてすべてを失ったアーサーは、「原理的に悲劇を回避・予防する方法」として「人間から人間性を剥奪する」という結論に達するわけだ。
つまり、RPGのラスボスの動機としては王道の、「反出生主義」(人間なんて生まれてこない方が良い、という考え)。
その計画にベルベットが溺愛していた弟のラフィを加担させるため、これまた「十二歳病」という訳の分からぬ不治の病が仕込まれている。
アーサーやラフィは、初めから絶望と闇落ちに至る仕掛けの上で生きていたわけだ。
この前提が、ありえなさすぎる。
また、彼らが本来守りたかったはずのベルベットを発狂寸前まで追い詰めるというのも考えられないし、いかに絶望していたとしても、感受性豊かな二人が人間性を否定するような全体主義思想に目覚めるというのも、ちょっとあり得ないという気がする。
さらに、これが決定的なのだが、そうした全体主義思想すらも彼ら自身の業なのだから、その論理は自己正当化の形式論理にすぎない。
他人(あるいは人間全体)を批判するが、自分自身だけはその論理の適用を免れているのだ。
このことをどう説明するのだろう。
ベルベットの弟のラフィは、元来知性と愛情にあふれた少年だったが、カノヌシとして登場した彼はそれらが見る影もないほど傲慢で身勝手なナルシストに成り下がっていた。
(基本的に、全能を気取るRPGのラスボスは、ナルシストが多い。自分の力にウットリしているような奴らだからね。)
相思相愛の気持ち悪いブラコン・シスコン姉弟、テレサ&オスカーも同様。
夢の中でベルベットを糾弾していたが、お前こそ身勝手で傲慢だったろ。
気位が高いだけで足元が見えていない、バカな女。
というわけで、敵があまり魅力的じゃない、というのはこの作品のちょっと残念なところだと思う。
本作が私のテイルズ体験3作目になるが、他のRPGに比べて、テイルズシリーズは世界を成立させている諸原理がくどい。
良くも悪くもその原理が中心に据えられたシナリオになっているので、だんだん「なんだそりゃ?」「じゃあなんで○○は××なんだよ」とツッコミを入れたくなってくる。
これはアライズのときもヴェスペリアのときも多かれ少なかれ感じたことだ。
ただ、この「トランスフォーム型群像劇」とでも言うべきシナリオは、結構面白かった(まだクリアしてないけど)。
あとは、エンディングで評価が決まるかなー。