ラストダンジョン&ラスボス目前だが、うまい表現が見つからない。

非常に評価が難しい作品だ。

 

海外では国内よりずっと評価が高く、やはり最高傑作と推す声もあるらしい。

FFを「ゲームの歴史の中枢に君臨し続けた特別な作品」という先入観を持たずに評価できる、という意味で、目の付け所が違うのだろうと思う。

当時の最先端レベルだったグラフィックや、ガンビットによる戦闘の先進性とゲームバランスなどは今日の作品と比較しても遜色ないし、新作が出るたびにRPGを新たなステージへと進化させ続けてきたシリーズのDNAのようなものは確実に引き継がれている。

やはりFFのナンバリング作品だけあって、劇中に登場する飛空艇のごとく、ユーザーを未知のエンタメ体験へと誘う超ハイレベルな作品だ。

そこは、間違いないと思う。

 

一方で、複雑ながら壮大でドラマティックな展開に期待が膨らむストーリーは、終盤急激に失速。

本当に同じゲームかと思うほど、演出面でも、キャラクターのセリフでも、急にFC/SFC時代(2D時代)の設計思想に後退する印象で、ヴァンに限らず、どのキャラクターもほとんどしゃべらなくなる。

かと思えばダンジョンの奥(塔の最上階)にたどり着くや否や、今度は突然思いのたけをありきたりな言葉で吐き出し始めるので、ネットで見つけた「昼ドラ」という形容に、言いえて妙だな、と感心してしまった。

 

キャラクターのセリフをすべて文字に起こしてテキストの量を比較したら、相当少ない部類に入るのではないか。

制作側が意図的にセリフを少なくしたそうだが、何のために?

非言語的な、表情や仕草や視線による演技、というのも、なんとなくちりばめられていたようには思うし、CGでそれをやったことは単純にすごいと思うが、だからと言ってセリフや背景の説明が不要ということにはならないだろう。

 

ドット絵×テキストであれば、そもそも「描き切れていない部分はあなたの想像力で補ってください」ということで、キャラクターのセリフが少なくても、「道中では仲間同士がこんな会話をしているかな?」とプレイヤーが想像で補えばよかった。

脈絡が多少ぶっきらぼうで、王様が唐突に「光の戦士たちよ!」と言い出したり、ラスボスが「ファファファ…死ねい!!」とのたまったりしても、「それがゲームだろ」で問題なかった。

演出もセリフもすべてがクサくてサムいFF4のような作品であっても、ドット絵とテキストとスーファミ音源でそれを表現した(表現できるということを証明した)ということ自体が「革命」だったから、むしろそのクサさやサムさが評価のポイントになりえた。

 

しかし、3D×フルボイスでそれをやる、という選択が、設計思想としてどうだったのか。

 

途中までは全くそんなことはない。

兄が好きだった花を踏みつけられて帝国兵に怒りの感情を向けるヴァンの心理描写など、非常に丁寧だった。

軍記ものとしての重厚で緊張感のある政治交渉や権力争いも迫力があった。

あるいは群像劇として、立場や志がそれぞれ異なるゲストメンバーやジャッジたち、あるいは神にも等しい力で世界を統べるオキューリアと、それに抗おうとするヴェインやシドらの存在は、単純な勧善懲悪でも世界の救済でもない、深みのあるシナリオを期待させた。

 

ネットに転がっている情報によれば、どうやら制作の中心にいた松野氏という人物が、健康上の理由で途中降板した影響が大きいらしい。

ゲーム制作においてどの役職の人がどの部分にどの程度影響力を持っているのか知らないので何とも言えないが、映画監督とかシナリオライターのような存在とするならば、おそらく、途中で別の人が仕事を引き継ぐというのはとても難しい(というかもはや同じ作品とは言えない)レベルだと推察する。

 

音楽でも、絵画でも、およそクリエイティブな作品は、誰かほかの人で代替がきくということには原理的になりえない。

脳みそ取り換える、というわけにいかないからね。

 

本当に素人がネット情報から聞きかじり&うろ覚えで想像しているにすぎないのだが、FF12は作品として、あるいはプロジェクトとしては、空中分解した代物なのではないかと思う。

それでも最後まで飛び続けることができたのは、前述のベース部分での完成度の高さゆえかと。

10-2と映画で失敗し、11は一般ユーザーから振り向かれず、さらに12でもプロジェクトとして破綻する危機があった、ということで、苦しみの中から生み出された産物、という気がしてしまう。