今月で41歳になるのですが、思えば、間違いだらけの人生だった気がします。

 

これまでに何度も「ルールが分からない」という表現で、自分のことを書いてきました。

 

この世界のルール、人間として「正しい」「まともな」生き方、

そういうものが、全く分からないのです。

 

太宰治の『人間失格』の冒頭、葉三の言葉を紹介しましたが、本当にあんな感じ。

 

幼稚園の頃、お遊戯をボイコットして一人だけ教室でお絵かきしてました。

給食も嫌いで、いつも残してました。

大人からしたら、かなり扱いにくい子供でした。

 

また、同じく幼稚園~小学1・2年生ぐらいのころ、「ルール分からない・空気読めない病」が発揮され、今でも思い出すたびに軽い罪悪感で胸が痛くなる出来事が2つありました。

 

うちにはファミコンがなく、ファミコンを持っている近所の子の家で遊ばせてもらっていたのですが、その子が、「ゲーム飽きたから公園でサッカーしよう」と言い出して、他の子もみんな公園に出かけて行ったとき、お遊戯の件と同様、「僕はゲームで遊びたい」と主張し、結局私だけ部屋に残ってゲームをやっていたことがあります。

その子のお母さんが帰宅して、よその子が一人家にいたのでびっくりしていたのを覚えています。

本当に迷惑な子供でした。

ね。

書いていて苦しくなってきますよ。

Y君のお母さん、あの時は本当にごめんなさい。

 

あと、別の友達の家に行ったとき、これもファミコンがらみなのですが、本体に刺さったソフトの抜き出し方が分からず、でたらめにやったら、本体のプラスチックの部品が破損してしまった、という事件もありました。

ルールが分からないなら聞けばいいのに。

ガキの頃からそうだったんですね。

あの時も、誰も壊した私のことを責めなかったのですが、子供のおもちゃとしては高価なものを壊してしまい、F君とその親御さんには本当に申し訳ないことをしたと、今でも思っています。

 

運動音痴なのもそういうことだと思います。

あと、ゴールという概念がある球技が苦手なのも。

皆で一つの目標に向かって敵味方で突き進むとき、ああいう競技が得意な人は、その目的に照らし合わせたら味方はこう動くはず、敵はこう動くはず、というのが瞬時に分かるのだと思います。

ゲームの目的を自分自身の目的に同一化できる。

 

しかし私の場合、「どうやらあの枠にボールを入れると点が入ることになっていて、どうやらみんな勝ちたいと思っているらしい」ということで自分もそのつもりになるのですが、結局ボールにはタッチしないのにボールを追いかけて走り回っているだけで、全く役に立っていないのになぜかめちゃくちゃ疲れている、という有様になります。

目的と同一化できないのです。

 

それ以外にも、大学時代にサークルでスキーに行って、初級者向けの斜面だったのですがそれでもスピードがついたまま止まれず、盛大にコケてレンタルのストックが曲がってしまったり。

それは、目的と自分自身が同化できないために、その目的からしたら必然的に、自然に心身が反応するはずのことが、全然できていない、ということなのだと思います。

つまり、私の運動音痴は、ある種の学習障害・発達障害と呼んでもいいような代物なのではないかと。

(結構本気で思っています。)

 

だから、高校、大学のときも、学校を卒業してからも、みんなの目的がどうもよくわからず、自分は何をどうしたらいいのか、見当がつきませんでした。

なんだか世の中も自分自身も、あるべき姿になっていない、ということだけが確信され、それでもみんな学校や職場に毎日通い、「普通の日本人」として、一見豊かな社会で平和に生きている。

就活?

志望動機?

いや、働きたくない。

だって、働いている人が、みんな幸せそうに見えないんだもの。

豊かと言われている社会が、何か決定的に大事なものを犠牲にして成り立っているようにしか見えないんだもの。

だったらなんでそっちを変えようと思わないの?

 

こうして、世界のルールやみんなの目的が全く理解できないという「障害」のもと、友達も恋人も一人もできなかった私は、どうやら「持続性抑うつ障害」になって、訳の分からない支離滅裂な20代を過ごし、それでも何とかブラック零細企業の社畜として働きながら、実家に住みついて生きながらえてきたのでした。

 

これまた、若いころに「早く家を出たい!」「自立したい!」「結婚したい!」という「目的」がはっきりした人、そうした目的が自然に、内発的に自分の中から湧いてきて、目的と同一化できる人は、この「社会生活」というゲームのプレイヤーとして、立派に「自立」できたのだと思います。

どうも私はそういう内側から湧き上がってくる力が決定的に欠けていて、基本的に「何もしたくない」「誰ともかかわりあいたくない」と思ってしまうのです。

 

それをナルシシズムと呼ぶなら、そうかもしれません。

甘やかされた子供と呼ぶなら、それもそうかもしれません。

アダルトチルドレンと診断するなら、それもそうかもしれません。

 

とにかく、間違いだらけ、間違った人生だと思います。

 

それでも、自分はこういう風にしか生きられなかった、これ以外にはありえなかったような気もしており、自己弁護・自己正当化・自己欺瞞の陥穽にまんまとからめとられながら、一層深みにはまっていっている今日この頃です。

 

こんな調子で、もう40年以上生きてしまいました。