すんごく、面白かった。

ハマった。

でも、感想を覚えているうちに書いておきたい。

ドラクエ11の辛口批評。

 

さて、日本のゲーマー(ゲーム好き・愛好家)に、「ドラクエ」の名を知らない人はいないだろう。

一方、海外ではFFほど人気がないと聞く。

その理由は、なんとなくわかる気もする。

 

日本人、しかもアラフォーの私がDQ11をプレイして、やっぱり日本人が日本人向けに作ったゲームだな、と感じる。

日本に最適化されているというか。

車で言えば、絶滅の危機に瀕している「5ナンバーセダン」や、日本の道路・住宅事情にぴったりの「軽自動車」と同じ。

 

日本人向けとしては120点の完成度なのだが、海外では必ずしも評価されない。

それは、ある種の「過剰適応」とも呼べるのかもしれない。

 

ただ、ドラクエのような地球上の実在の世界を模倣した疑似的世界で、島国日本に過剰適応すると、グローバルな市場ではいささか不都合な問題が生じる。

 

たとえば、方言。

 

今作においては、東北・関西・沖縄訛りのmobキャラが登場する。

このニュアンスは、翻訳不可能だろう。

 

しかも、これは誰に責任があるのか分からないが、たとえ日本語版であっても、方言で話す人=田舎者・無知な者・教養や教育のない人、と見なすようなコロニアリズム的バイアスがかかっていて、この点は本当に気になった。

重ねて(誰に責任があるのかわからない、と念を押しつつ)、たとえば鳥山明作品のドラゴンボールでは、「ミスターポポ」という、一昔前「土人」という差別用語で表現されていたような、色黒の「未開人」が登場する。

純朴で実直である一方、土着の言語体系を超えた世界を知らず、文明の他者として描かれている。

 

こういう、学校教育を介さない、ある種無自覚で無邪気な(鳥山明は天才的イラストレーターだ。邪気と無邪気を最も少ない線で表現できる)「啓蒙」によっても、差別や偏見は生み出されうる。

歴代最高傑作と評する声も少なくないドラクエ11、私自身も素晴らしいエンターテインメントであることを身をもって体験したが、それでもなお、あるいはだからこそ、ドラクエの課題の一つは、この「日本人であることの優越感」を手放すことができるかどうか、ということなのではないだろうか。

 

言葉の問題を皮切りにしたが、他にも、「名前」。

プレイした人は知っている人が多いと思うが、実は海外版ではパーティーキャラの名前が全く違う。

日本版→海外版、でいうと、

 

カミュ→エリック

ベロニカ→ベロニカ ※これだけそのまま

セーニャ→セリーナ

シルビア→シルヴァンドゥ

マルティナ→ジェイド

ロウ→ラブ

 

その他、諸々、ラスボスまで名前が違う。

「名前」って、決定的に大事な要素ではないだろうか。

たとえば世界的に成功しているFF7(R)では、こういう問題は起こらない。

※FF7オリジナル版のスタッフロールで、マーケティングスタッフに外国人の名前を確認している。

 

今や世界で成功させようと思うなら、事前に多様な国籍の人にお墨付きをもらってからリリースするという手順が必要になるのだ。

 

昔は、あるいは今も、映画やミュージシャンの曲に日本語のタイトルがつけられることがある。

しばしば「意訳」の域を超えて、オリジナルの意図を壊しているものまである。

営業上の都合で仕方ないのかもしれないが、やはり「作品」と「商品」は扱いを区別するべきだと思う。

作り手の意図を無視してはいけない。

 

だからこそ、作り手にもまた、プロモーターの立場を理解して「売るための知識」を身に着けたうえで制作に取り掛かる必要がある。

受け手がどのような消費者であるのか、ということを理解した表現が求められている、とも言える。

この点において、ドラクエはどうしても、悪い意味でも、「ジャパニーズ・ビデオゲーム」なのだ。

 

※「ドラクエ」同様、「ストⅡ」も、その名はレジェンドになっているが、「悪の四天王」の名は、海外版ではリネーム(入れ替え)されている。

参考)

日本版:ベガ・サガット・バルログ・バイソン

海外版:バイソン・サガット・ベガ・バルログ

順序対応。

 

世界中を旅してまわる、というゲームだから、登場キャラも世界中のご当地文化を、衣装や名前その他の属性でもって表現しようとするのは必然的な流れだ。

パーティーの主要キャラの個性も、多様性の中でこそ際立つ。

特に今回は、シルビアという「男性でも女性でもない」キャラと、「ぱふぱふ」という日本人向けの悪ノリ(日本人である私は気にならないが)によって、「性」についても、自ら課題を提起する形になっている。

 

私は、ゲームが大好きだ。

現実の世界は、感情の劣化した幼稚で馬鹿な連中が仕切っていて、面白くも何ともない。

そういう世界で、自分自身の感情もまた、劣化しているのを悲しくも自覚している。

だからこそ、ゲームは単なる娯楽ではなく、私の大切な消費行動の一部になっている。

今回のドラクエ11も、40代のオッサンが、一人で泣きながらピコピコボタンを押して、画面に映るCGファンタジーに没頭していたのだ。

 

同時に、私は日本が大好きだ。

日本人であるがゆえに享受できているもの、例えばゲームや漫画のようなサブカルチャー。

その層の分厚さは、おそらく地球上で今後同じレベルで再現されることは二度とない。

自分は、ある種の「奇跡」をごく自然に体験して育った、超ラッキーな世代だと思っている。

だからこそ、これからの人生でも、ゲームで遊んでいたい。

ドラクエも、FFも、私の人生の一部なのだ。

 

ジャパニーズ・ビデオゲーム。

自身の歴史とアイデンティティをもう一度確認して、リネームの必要のない「作品」を作り続けて欲しい。

 

ドラゴンクエスト、略して、ドラクエ。

その歴史を、「現役時代」は未体験だった自分が、今こうして体験できることは、きっと、幸せなことなんだろうなあ。