不勉強を承知で書くのだが、「LGBTQ」という文字列をネットニュースの記事に発見し、「Q?」と疑問に思い、答えを聞いてもまだ、「なんじゃそりゃ?」、という感想を禁じ得ず、なぜそんなに細分化する必要があるのか理解出来ずにいる。
差別は、よくないよ。
ほとんどの人はそう思っているはず。
性的マイノリティを差別する人は今や自分自身がマイノリティであることに気づいた方が良い。
ただ、「Q」とか言われても、知らんがな。
ほとんどの人間は、自分以外の人間に興味がないのだよ。
そして、「自分以外の人間に興味がない」という性質自体には、マジョリティもマイノリティもなく、つまりLGBTの当事者だって、顔の見えない人間のことなんてどうでもいいはずなのだよ。
多数者が多数者であるということ自体は罪悪視できないし、マイノリティがマイノリティであるにもかかわらず、マジョリティに配慮や理解や分配を要求するというのも筋が違うと思う。
あくまで、差別は良くないって話。
多数者の感受性を少数者に合わせろ、公共空間や言語体系まで作り替えろ、というのは、結局エゴ以外の何物でもないのではないかと思う。
少数派が政治的に不利なのは、セクシャリティに限らず、人種や世代の違いを見ても同様であり、民主主義が多数決という決定原理を採用している以上、避けられない事態だ。
それに、多数者というのは要するに既得権(文化的・政治的・制度的etc)の受益者だから、アイデンティティの欲求とステイクホルダーとしての利害とが重なることで強力な政治的支配力を発揮する。
これも必然であり、それを無力化することは不可能である。
そうした政治力学的な非対称性を解消しようとするということは、「マジョリティ」「マイノリティ」という区別自体を無効化するということであり、全員マジョリティ(みんな同じ)になるか全員マイノリティ(みんな違う)になるかのどちらかしかなく、結局同一性と差異はどちらが先か、あるいはマジョリティとマイノリティはどちらが先か、という堂々巡りの議論に行き着いてしまう。
LGBT(Q)のようにどんどん細分化されていく言葉は、既存のカテゴリの中に回収されえない自身の差異を表現し、理解を得たいという動機に基づいて生み出さるものなのだろうが、その差異こそが自分の性的アイデンティティになっているわけだから、差異こそが同一性だということになる。
つまり、自分の性的アイデンティティを自覚する(「自分らしさ」「ありのままの自分」が何であるかを自覚しながら生きる)には「マジョリティ」と「マイノリティ」という区別自体を無効にはできない、ということなのだ。
性的マイノリティに関する話題は争点としても派手だし、現に差別されたり結婚が認められなかったりすることに苦しんでいる人もいるだろうから、重要な問題であることには間違いない。
だれもがより自分らしく幸せに生きていけるなら、そういう方向に社会を作り替えることにも賛成だ。
だが、マジョリティの感受性が無条件に悪であり、マイノリティは無条件にイノセントであるとも思えないし、そもそも性という視点以外にも人間を多数者と少数者に分けて社会的扱いを区別するということは日常のいたるところで行われている(たとえば正社員と非正社員の扱いの差は差別ではないのか、なぜ年齢により再就職のチャンスが極端に(非合理に)制限されるのか、など)わけで、ダイバーシティを標榜するのなら、こうした派手な論点だけでなく、日常の隅々まで浸透しているこうした「他者の問題」に常に敏感に反応し応答する思考習慣を一人ひとりが内面化しなければならない。
そしてそれは、口で言うほど簡単なことではない。