言い訳するなんて、男らしくない!
言い訳なんて、子供のすることだ!
と、賢い振りをして自分自身を追い詰めてしまう完璧主義者は多いと思う。
心がけは立派だし、そういう意識が必要な場面もあることを私は認める。
だが、今の世の中で働きながら生きていく、ということを宿命づけられている人間にとって、この言葉を金科玉条のごとく崇拝する、もしくは「道徳的に成熟した私」であり続けるための「掟」として背負いこんでしまう、そういうことになると、時と場合によっては危険である。
多くの場面で、現代の仕事は「ブルシット化」しており、本当に「役に立たないばかりか有害ですらある」ことが多いのだ。
会社が決めた方針があれば、従業員としては従わなければならない。
しかしそれがもとで、お客さんから不平不満、あるいはクレームをぶつけられたら?
「そんなの、俺のせいじゃない」
中間管理職の自分。
若いスタッフがミスして、お客さんに謝らなきゃいけなくなる。
部下のミスは、自分の責任。
子供が人に迷惑かけたら、親の責任。
うん。
それは、そうだろう。
原則として一度はそう考えるべきだろう。
でも、管理職として充分に資源を与えられてる?
給料もらえてる?
親だって、もしかしたら、昔なら、親以外の誰かが面倒を見てくれたんじゃない?
そんな完璧なこと、私ごときに期待するのが間違いよ。
「過ちを犯したことがないものがこの石を投げるがよい」。
もっと寛容な社会であってほしい。
長くなるから今回は深入りしないが、「責任」という発想自体、私はフィクションだと思っている。
「責任感が強い」というのは、「昨日の自分と今日の自分が同じであること(自己が同一性を保った主体であること)に対する執着が強い」ということと同義だ。
しかし、昨日の自分と今日の自分は、厳密に言えば同じではない。
だから、厳密に言えば責任なんて取れるわけない。
しかしそれでは社会生活を営む上で何の約束もできなくなるから、「お互いに同一性を保証し合いましょうね」ということで「責任」という概念を共有しているに過ぎない。
おっと、深入りしそうだ。
この辺にしておこう。
今回言いたいのは、要するに、これ。
「そんなの、私のせいじゃない」
反省って、後悔と自己嫌悪の別名でもある。
反省なくして成長はないが、何をどう反省したらいいのか分からない、というときは、基本的にあなたのせいではないから、自分で自分を傷つけたり追い詰めたりするのはやめて、うまく逃げよう。