●誰も置き去りにしない
SDGsの理念は「誰も置き去りにしない(no one will be left behind)」だそうな。
ほんまかいな。
この目もくらむような異様なまでの格差社会で、その格差を生み出すシステムは「持続」しつつ「誰も置き去りにしない」なんて、出発点からして矛盾していやしないか。
世界のたった26人の富豪が、下から38億人が持っている資産と同じだけの富を独占しているそうじゃないか。
人類全体の半分以上は、置き去りにされているじゃないか。
富の非対称性だけではない。
社会を変える先端技術にアクセスできるかどうかということにおいても、格差・分断は存在する。
イノベーション?
電球・蒸気機関・蓄音機・電話…
自動車・飛行機・ダイナマイト…
コンピュータ・人工衛星・インターネット…
確かにこれらは人類の生活を一変させる大きな技術革新であり、新しい産業を生み出し、時に戦争に利用されもしたが、総じて、人々の生活を豊かで便利にすることに貢献した。
しかし、AIが人々の仕事を奪うとか、なんでも個人情報と引き換えでないと社会生活が送れないとか、技術の進歩が人間の欲求や必要を追い越してしまうと、あるいは技術があまりにも専門化・複雑化してしまうと、やっぱりそこに「置き去りにされる・取り残される・疎外される」人々が生まれてしまい、格差が拡大する。
イノベーションは、果たして、「いいこと」なのだろうか。
イノベーションによって、人類は、あるいは、あなたは、私は、今より幸せになれるのだろうか。
ますます、「誰も置き去りにしない」というスローガンが眉唾物に思えてくる。
SDGsのような「流行語」でイメージを良くしようという目論見自体、「エリート」(あるいは「成功者」)と「大衆」との分断の象徴なのかもしれない。
もし、「持続可能性」ということを階級の差を超えた共通の課題として、社会全体の連帯や共感を生み出せるのであればそれは素晴らしいことだろう。
しかし、大体そんな規模の大きなお利口なことを考える連中というのは、他人のお節介を焼けるぐらい余裕のある人々であり、「誰も置き去りにしない」などと余裕をかましていられるのは、「置き去りにされる」ということが他人事だからなのである。
と、ルサンチマン全開の悪口ばかり書いてしまったが、やっぱり社会を作るなら、できるだけ多くの人が幸福だと思えるような社会がいいに決まっている。
「幸福」の定義が人それぞれ違うので突き詰めて考えると難しいのだが、しかし、今日のように「99%と1%」的な格差にほとんどの「普通の人」が鬱屈した不満を抱えている世の中というのは、やっぱり健全とは言えないし、持続可能でもないのだろう。
ほとんどの人が置き去りにされる「社会」とは?
それって、そもそも「社会」と呼べるのかな?
●「置き去り」について ~格差と居場所
学校で、席替えをした翌日、昨日までと同じ席に座ってしまい、後から教室に入ってきた子に「君の席はこっちだよ」と指摘されたことはないだろうか。
で、「あ、しまった。いや~ごめん、ごめん。」と、頭をポリポリ掻いて、いや、ポリポリ掻かなくてもいいが、というか照れ隠しのために頭をポリポリ掻く人というのは、胡椒でくしゃみしている人やバナナの皮で滑って転んでいる人と同じぐらい、実在するかどうか怪しいものだからどうでもいいのだが、とにかく、新しい席に座り直す。
さて、「教室」という場所に「自分の席」があり、周りの人が「ここは、君の場所だよね」と認めているとき、それはその人の「居場所」ということになる。
だからこそ、その場所を奪うような行為、机に落書きするとか、菊の花を置くとか、会社だったら窓際に席を移動するとか、そういう陰湿ないじめ(これも、ここまでベタなものはさすがに目撃したことがないが)も成立することになる。
それは、「居場所」というものに対する感受性が、いじめる側にもいじめられる側にも存在する、ということを意味する。
いじめる連中というのは、どうやったら相手が傷つくか、という実存的な条件を直感的に理解できているわけだから、やっていることは低俗卑劣でも、ある種の感受性においてはやっぱり「人間」なのである。
そして、いじめられる側も、正しく、それに傷つけられるわけだ。
いじめを例にしたのはちょっと良くなかったかもしれないが、分かりやすかったので。
私は当然いじめを肯定しているわけではない。
前述の通り、他人の自尊の感情を踏みにじるというのは、人間として最も低俗卑劣な行為だ。
今ここで確認したいのは、「居場所」という問題。
家庭に居場所がない、という子供や、父親や、母親がいる(らしい)。
自分はここにいていいのだ、という安心できる場所がない、ということだ。
愛情がないのだろうか?
あっても、相手に伝わっていない?
いや、おそらく、成績が良くないと、稼ぎが良くないと、夫の理想通りに振舞わないと、つまり何かの条件を満たしていないと、家庭内においてすら、存在を肯定してもらえないということなのだろう。
職場においてはなおさら、成果を求められるのだから、条件を満たしていなければ居場所はない、ということになる。
厳しいですなあ。
そういえばスポーツ選手は巨大な電光掲示板にスタメンが表示されるし、背番号もあるし、サッカーで途中から点取り屋が投入されたときのアナウンスなんか、見ているこっちも鳥肌が立つような興奮がある。
我、ここにあり。
天を指さし、ユニフォームにキスして、全速力で自分のポジション、自分の「居場所」へと駆け出していく。
サッカーを観戦していて、感動的だと思うシーンの一つだ。
そういう競争に勝った人にだけ与えられる居場所があるのは分かる。しかし一方で、無条件で与えられる居場所もある、はずだ、あるいは、べきだ。
格差と分断の最大の問題は、異様に要求の水位が高くなった能力や価値の条件で不断に個人を選別し、ふるい落とされた人々から居場所を剥奪している、ということなのではないか。
システムから、あるいはテクノロジーから、大多数の「普通の人」が疎外され、置き去りにされているように見える。
そして、居場所を失ったのも、置き去りにされたのも、あなたの自己責任だ、などと一方的に断罪されてしまい、顧みられることがない。
SDGsは、果たしてそういう大局的な流れに逆らう言説になりうるのか?
今のところ、そこまでの気迫は感じられない。
「自己責任」と「誰も置き去りにしない」が同じ人間の口から出ている言葉のような気がする。
つづく。