前回、娯楽として何かを消費するにも、それなりにコストがかかる、という記事を書きました。

 

コスト、というのは、お金、ということだけでなく、時間とか、労力とか、そういうものも含みます。

 

例えば、CMで流れていた曲を気に入って、CDを買った、あるいは曲をダウンロードしたとします。

今後の人生の中で、例えばドライブ中に流すとか、カラオケで歌うとか、寝る前に聴くとか、そういう形で、「今、この曲を聴くと(歌うと)自分は楽しめる、いい気分になれる」というシチュエーションのときに意識的にその曲を使えるようにするには、何回か、あるいは何回もその曲を聴いて、歌詞やメロディーやアレンジを、覚えなければなりません。

それは、要するに、脳に「学習」させているわけです。

 

「これは面白いものだ」

「気持ちいいものだ」

「カッコいいものだ」

 

そういうことを、自分の脳に学習させる必要があるのです。

 

世代が同じ人や趣味の合う人など、ある程度共通の話題として互いに体験した文化(サブカルチャーだろうとそうでなかろうと)を共有できるのは、上記のような共通の学習体験をしたことがある、ということに由来します。

逆に言うと、そのような学習体験を共有できない相手とは、話が通じません。

異なる世代間で話が通じないのは、そういうことが原因になっているはずです。

今はコンテンツが多様化している上に移り変わりが激しいので、異なる世代や、あるいは同世代であってもそのコンテンツの射程圏内に属しているかどうかによって、共有可能な学習体験というのがどんどん少なくなっているのかもしれません。

それが果たして幸せなことなのかどうかは、よくわかりませんね。

 

みんなが同じものを消費する、それは服で言えば「ファッション」ということになるのでしょうが、排他的な政治思想ということになれば「ファッショ(ファシズム)」ということになり、ある意味で危険な状態にもなりえます。

多様性が維持されているということと、共有できる学習体験があるということは、両立可能なのか?

 

…難しいテーマです。

 

さて、何はともあれ、私がここで主張したいのは、楽しいこと、気持ちいいこと、そういうものを手に入れるのも、「学習」の成果である、ということです。

そして、前述の「コスト」というのは、言い換えれば、「学習」です。

 

なんでもそうですよね。

 

納豆がおいしい、ということを学習した日本人なら、大豆をわざと腐らせた発酵食品をねばねばにかき混ぜてご飯に載せて毎日食べても「うまい!」としか思わない。

だけど、それを学習していない人からすると、とんでもない食文化だ、ということになる。

逆に私が「昆虫を食べろ」とか言われたら、勘弁してくれ、となるわけです。

 

学習とは、「快」と「不快」の情報を脳に記憶させるプロセスであると言えます。

仕事や勉強、そういう複雑な社会的活動から「快」を得ようとすると、それは難しいミッションになりますねえ。

働くことが「快」であるということを脳に学習させなければなりませんが、その前に「不快」を克服しなければなりません。

時にその「不快」は心身の健康に悪影響をもたらす「ストレス」かもしれません。

それに「快」を得ようとして苦役に耐えても、求めていた成果が手に入るとは限りません。

仏教では「四苦八苦」の中に「求不得苦(求めたものが手に入らない苦しみ)」というものもありますから、「快」を学習する過程で「不快」に打ち負かされる、ということは十分起こりえます。

 

結局のところ、快を求めて不快を避ける、どうすればそれが可能か、ということが「幸福論」であり、「人生論」です。

人生において最も大切なことは、自分を幸福にする術を学ぶこと、それこそが「自立」であり、その学習を終えた人こそが、「大人」なのでしょう。

でも、実は人間は最終的に確実に死にますので、そのことを前提にすると、その学びは死をもって完成する、ということなのでしょうか。

人生は、単純にして複雑、複雑にして単純、快を求めて不快を避ける学習の旅なのだ…

 

今日の私はそんなことを考えました。