最近では、映画は倍速視聴して、面白かったらちゃんと見る、という人もいるそうな。

映画、ドラマ、アニメ、マンガ、ゲーム、音楽…

日々生み出される膨大な量のコンテンツたち。

これら大量の娯楽を渉猟するとなれば、あらかじめ自分の好みに合っているかどうか見極める必要がある。

倍速再生というのも、情報過多の世界で生まれた、「遊びのコスト」(主に時間的コスト)を下げる一つの方法なのだろう。

 

本は残念ながら「倍速で読む」ということができず、情報として脳にインストールする(=読む)速度より、新しく追加購入されるものの方が多くなり、結果的に部屋中に「積ん読」状態で溜まっていく。

データじゃないから、場所取るんだよね…

私の部屋は足の踏み場もないぐらい本が散乱しており、うんざりして時々片付けるのだが、それでも1か月もすると元通りになっている。

先日、立花隆氏が亡くなって、氏の仕事風景のようなものがテレビに映っていたが、まあ、私の10倍?20倍?いや、それ以上、と思うぐらいの積読ぶりで、なんだか、安心した。

「積ん読」こそ、「知の巨人」の条件である!!

積読派の諸君、大手を振って、今日も積んでは崩れる本に埋もれよう。

埃とか、髪の毛とか、溜まってると思う。夏場はダニもわくよ。

それは、あきらめ。

 

さて、娯楽ですらあまりに供給量が多すぎて、どれに手を出すかを見極めるにもコストがかかるということになれば、そのコストとどう向き合っていくかも重要になってくる。

「本を読む」というのが象徴していると思うのだが、たとえば「名作」との呼び声高い小説を読むとして、1ページ目からページをめくり、場合によっては前に読んだところをもう一度読み返し、また「名作」であれば読了後も2度3度読み返し、そうしてじっくり時間をかけて味わっていくものだから、その作品を味わうために必要なコストは時間換算では相当なものになる。

 

同様に、映画は1本2時間、最近ではアクション映画なんかは90分で作られるなど、視聴者の「遊びのコスト」を下げる工夫がされている。

こういう分かりやすくて簡単なものに慣れ過ぎてしまうと、みんな馬鹿になって、直感的な刺激にしか反応できなくなるかもしれない。

本なんか、読まなくなりそうだ。

アクション映画程度の娯楽作品ならそれでもかまわないが、本を読まなくなるとそれは良くない、と思う。

人々が短絡的・近視眼的になり、「今が良ければそれでいい」という世の中になりはしないか。

 

コンテンツ消費、ということだけではない。

以前、「趣味は遊びではない」と言っていた知人がいた。

趣味を続けるのであれば、練習したり、情報収集したり、仲間を作ったりと、続けるための努力をし続けなければならない。

だから、趣味とは、ライフスタイルそのものなのだ、と。

 

職場の同僚に、海釣りの達人がいる。

自分で音楽の作曲・編曲ができる人もいる。

ロードバイクに金をかけている奴もいる。

彼らにとって、趣味は、人生の一部であり、続けるための努力を怠っていないのだ。

 

そういう意味では、コストを引き受けて自分で楽しむための努力をしていかないと、情報過多時代に本当の意味で「遊ぶ」ことなどできないのではないか。

実は何気なく消費するコンテンツを選んでいるが、それはライフスタイルの選択でもありうるのではないか。

そこには、「楽しませてもらう」という受動的な態度より、自ら楽しもうとする積極的な姿勢が必要になる。

真剣にやれば、アニメもマンガもゲームも、もはや遊びを超えたライフスタイルなのではないだろうか。