音楽的にすごいかどうかは、素人の俺にはわからん。
美しいと感じるかどうか、
メロディーとか、ハーモニーとか、そういうものがきれいだったら、
ひとまず「いい曲」ということにはなる。
歌の場合はそこに「詩」が掛け算される。
さらに映像やらダンスやら視覚的なものまで重なると、
総合芸術というものの魅力に圧倒される。
さて、これまで「名曲」扱いされてはいるが、俺はいいとは思わない、という歌を2曲見てきた。
やっぱり「名曲」の条件は、歌詞なんだなあ。
もっと言うと、「神曲」と呼ばれるには、すべてに必然性がなければならない。
この領域で詩が書けるのは、たとえば桑田佳祐だ。
爆笑問題の太田光が、「サザンの曲は全部がサビだよ」とうまいことを言っていた。
曲も詩も、すべてがハイライト、すべてに表現したいものが詰まっている。
表現したいものが必然的に選んだ、メロディーや、言葉。
最初から最後までそういうものだけで構成されている。
たとえば、1番は良くても、2番の歌詞で変に字余り/字足らずになる曲がある。
それは、表現したいものが1番で弾切れ/ネタ切れになっているからだ。
「歌謡曲としては2番も作らざるを得ないな…、ここ、文字数足りないな…、でも、歌メロアレンジで無理矢理やっちゃおう!」
これによって「神曲」になれなかった「いい曲」は星の数ほどある。
たとえば、こんな曲。
●小田和正 「たしかなこと」
保険のCMので、家族や子供の思い出写真なんか投影しながらこの曲が流れる。
時を越えて君を愛せるか 本当に君を守れるか
空を見て考えてた 君のために今何ができるか
だから、保険。
…すげえ。俺も保険に入りたくなっちまう。
保険のCM用に作ったのか、保険会社がちょうどぴったりの曲を見つけてきたのか、順番は知らない。
しかし、保険に入る動機を、最も美しい言葉で表現すればこういうことになるんだろう。
小田和正の、透明で力強いハイトーンヴォイスもたまらん。
しかし、こんな「いい曲」も、このフレーズがすべてで、2番まで聞くと冗長である。
このフレーズに匹敵する表現が、二度と出てこない。
だから、私の中では神曲ではない。
この課題を克服している曲は、たとえば武田鉄矢作詞の「贈る言葉」。
3番まであり、2番以降は多少の文字数のずれはあるが、短編小説のような世界が表現されている。
1番も2番も3番も、「贈る言葉」として伝えたいものが、それぞれ独立してしっかりあるのだ。
だから、3番までしっかり聞いていられる。
1番だけでなく、2番のここ、3番のここが好き、そういうものがしっかりある、ということなのだ。
あらためて見ると、やっぱこの歌詞すごくね?
1番:
人は悲しみが多いほど
人には優しくできるのだから
2番:
求めないで優しさなんか
臆病者のいいわけだから
3番:
だけど私ほどあなたのことを
深く愛した奴はいない
…うん。
私ほどあなたを深く愛した奴はいない、と言い切れるようでなければ、2番は出てこない。
これが金八先生の主題歌だった時代。
日本が豊かだった時代だよ。
さて、その流れで以下に「迷曲」を2選。
●一青窈 ハナミズキ
この人は、一発屋だったのかそうではないのか、よくわからない。
「もらい泣き」という不思議な歌の方がヒットしたと思う。
しかし私はこの「ハナミズキ」という曲の独特の世界観が好きだ。
果てない夢が ちゃんと終わりますように
君と 好きな人が 百年続きますように
永遠に続くことを幸せだと思っていない。
やがて、夢も、希望も、恋も、そして幸福も、すべては終わる。
どんなに長く見積もってもせいぜい百年、
浮かれたりはしゃいだりすることなく、
命が有限であることを受け入れ、
その摂理に従って今生を全うできますように、
ちゃんと終わりますように、と願っている。
いい。
いい曲。
でも。
庭のハナミズキ
薄紅色の可愛い君のね
ここが残念過ぎる。
何が残念かというと、「ハ ナミズキ」と「ね」が残念なのだ。わかる?
曲のタイトルにもなっている肝心の花の名前が、ハ ナミズキになっている。
そこで切らんで欲しい。
そして、「のね」の「ね」が、気になる、のね。
「文字数合わせの苦肉の策」感がすごいの。
サビだよ。
サビの一行目。
何とかならなかったんか…。
芸術とは実に難しいものだ。
●徳永英明 壊れかけのRadio
小田和正と並び、透き通るような美声を持つ男性ボーカリストとして活躍した。
この曲も、少年から大人になるにつれて、失うもの、傷つくこと、でも、みんなが通る道、壊れかけのRadio…いい曲だ。
切ない。胸にじんと来る。
私が好きな詩はここ。
華やいだ祭りの後 静まる街を背に
星を眺めていた 穢れもないままに
遠ざかる故郷の空 帰れない人波に
本当の幸せ教えてよ 壊れかけのRadio
切ない。
せっっつ、なあぁぁぁあいっ……。。。
人間が孤独を感じるときって、こういう時だよね。
みんなの思い出の中にもあるだろう。
友達と散々遊んで、夕方になって、じゃあね、って別れて、自分一人だけになった帰り道。
歩きより自転車の方がなおグッとくる。
さっきまでの喧騒が嘘のように、急に静かになって、日が沈んで、夜のにおいがして、建物に明かりがついて…
ただいま。
うっっ。
切ないっつ。
せえぇぇぇつっ、なあぁぁぁぁぁあぁ……いぃぃっ!
本当の幸せ、教えてよ。マジで。
こんな曲はもう問答無用に神の領域に認定されるはずなのだが、だが、残念!
「思春期」!?
アウトよ、アウト。
前述の「ウルトラソウル」ばりにアウト。
こんな情緒も色気も語呂の良さすら存在しない発達心理学用語に最も肝心な部分を託してしまったのがこの曲の悲劇だ。
なぜ誰もダメ出ししなかったんだ。
「思春期に少年から大人に変わる」、と、発達心理学的には説明されております、って、
あんた、馬鹿じゃないの!?
野暮。やぼ。ヤボ。YABO。
何約束された神曲台無しにしてんのよ。
声変わり、しますよ。
女の子に、興味出ますよ。
そして、ちんちんに、毛、生えますよ。
そりゃそうだよ。
学校の保健体育の授業で、「あなたたちは思春期なのよ。」って、教わるやつじゃん。
この言葉で連想することって、そういう一連の、諸々のことでしょ。
こういう学問的な概念なんて、詩の言葉の真逆でしょ。
僕が失ったもの、傷ついたこと、
あ、気が付けば、大人はみんな失ってる、傷ついてる、
ねえ、
本当の幸せ教えてよ、
壊れかけの、Radio。
そういう約束だったはずなのに、
なんでここに「思春期」って言葉使うんだよーーーー!!!
この馬鹿!間抜け!!おたんこなす!!!
(…ゼェゼェ…)
というわけで、詩というものがいかに大事かがお分かりいただけたと思う。
次は、「神が舞い降りたとしか思えない歌詞」について書こうと思います。
つづく。