「人間は誰もみな、自分の物語を生きている」

 

ってよく言われますよね。

私も、中学生ぐらいまでは、毎日少し先の未来の脚本を意識的に/無意識的に描いては、その日その日、その瞬間瞬間を生きていました。

自分の中で、「集中する」「切り替える」というスイッチがまともに機能していたころの話です。

意識は基本的に「今」と「少し先の未来」に向かっていました。

 

しかし、以前の記事にも書いたように、私はどうやら15歳から(医者から正式に診断を受けたわけでもないし、今となっては本当のところを検証することはできませんが)、気分変調症(持続性抑うつ障害)の状態にあったようで、その後少なく見積もっても15年ぐらい、長く見積もって20年ぐらいは、「今という虚構を演じつつ過去に意識が向いていて未来がない」という感覚のまま生きていました。

 

歌謡曲の歌詞で、「止まっていた時が動き出す」という表現が出てきますよね。

いまパッと思いついたのはラルクのsnow dropという曲の歌詞。

「運命は不思議だね/サビついて止まっていた時が/この世界にも朝を告げてくれるよ」

 

多かれ少なかれ、誰しも経験あるんじゃないでしょうか。

何か、かけがえのないものを失って、その過去にずっと意識を取られて、今と未来を生きられない。

過去に縛られてしまって、時が止まったままになってしまう。

 

肉親との死別や、大きなけがや病気、失恋や失業など。

そういう大きな喪失体験をきっかけに、自分の物語が起動しなくなることはあり得るのです。

 

私はそれが15歳のときから始まりましたので、40になった今でも、自分の人生を生きているという感覚が希薄です。

自分の物語を描くということが全く白々しく、他人に語るべき内容を持たない、空っぽの、白紙だと思います。

この意識の状態が常態化している感覚は、たぶんなった人間でないと分からないと思います。

また、そういう意味では、やっぱり自分は病気(だった?)のではないかと。

 

でも、最近になってようやく、「ちゃんとあきらめる」ことができそうな気がしていて、自分の物語を再起動できるかもしれない、という希望もほんのわずかながら感じています。

この世界に朝が来るかどうかは分かりませんが、運命が不思議なのは私も知っていますので。