最近、ネットで時々目にするようになった
「尊い」という形容詞の特殊な使い方。
「尊み」という転成名詞も存在する。(「○○み」という使い方は若いネットユーザーがよく使っている)
私が目撃したのは、
「推しが尊い」
「尊み爆発」
などの用法だった。
基本的にアイドルや動物などに対し、あまりにも見た目がかわいらしくてじっとしていられなくなる状態を表しているようだ。
ネットではできるだけ少ない文字数で感情や感覚を表現し、それを他者と共有したいという動機が働くから、そこでニーズに合わせて言葉が変化するということはあるだろう。
英語のpreciousの直訳、と考えることもできるから、別段気にならない人もいるかもしれない。
しかし、私はどうしても気になってしまうのだ。
若者言葉に苦言を呈するのは私がオッサンである証拠ということでいいのだが、そのことを差し引いても、こういう言語感覚で大丈夫なのかと危惧を覚える。
本来、人間は一人ひとり誰もが尊いはずなのだ。
きれいごとではなく、命を大切にする、他者を尊重する、そして自分自身を愛する、それが人間の倫理の基本ではないだろうか。
世の中には金持ちも貧乏人も、健康な人も病人も、容姿端麗な人もそうでない人もいる。
でも、「みんなちがって、みんないい」そういう見方を採用するのが、やっぱりバランスの取れた感受性だと思う。
見た目がいいということを「尊い」と半ば神格化して持ち上げてしまうことが、ルッキズムや優生思想を個人や人々の中に間接的に植え付けていくことにつながりはしないだろうか。
あるいは、「自分は尊くない」という自己否定的な感情を刷り込みはしないだろうか。
そして、自分はこの言葉を使って大丈夫なのか?という反省を若者たちはしなくなっているのではないか。
面と向かって会話しているとき、つまり公共空間で他者とのバランスを絶えず調整しながら言葉が生み出されているときなら、こういう言葉が使われる余地はないはずだ。そこにいる誰かが、「それ、おかしくない?」とツッコミをいれて、言語としてみんなで共有できるかどうかの審査や微調整が行われるからだ。
一方、ネット空間における共感反応、その結果としての言葉の変容という現象があったとして、それは時に、他者との関係や倫理全体のバランスの中で調整されているはずの人々の言葉を、可視化された一部の極端or特殊な感情や感覚を集約し共有するツールとして、公共空間における審査や調整のプロセスを飛ばして、非公式に市民権を与えてしまうのではないか。
そして、その言葉にさらされる言語感覚も未熟な若者たちが、無批判にその言葉を内面化して自己を形成していってしまうのではないか。
人間の思考は言葉によって作られている。
言葉が失われることは、思考が失われることに等しい。
最近では、「言葉が通じない」と感じることが非常に多くなった。相手が子供や若者の場合はもちろん、大人であっても。
この国は、これからどこへ行こうとしているのか。
日々目撃する「言葉」の問題に、ため息をつかずにいられない、オッサンの私。