私は子供のころから、「ぼーっ」と妄想にふけるという癖(?)があり、それは今でもそうです。

むしろ大人になってからの方がひどく、四六時中心が今とは別の場所で空想妄想に捕らえられているので、今ここにいることが他人事のようになってしまっています。

これは重大な問題(何かの適応障害)だと思うのですが、とにかく、もともとの気質に加えて、現実に違和がありすぎて没入できないのが大きいと思います。

だから、他者と「今ここ」を共有できないため、自分が何気なく発言したことが場を盛り下げる、ということもしばしばあります。

私としては盛り下げようと思っているわけではないのですが、みんなが「今ここ」に没入しているときに、その熱を冷ますような、今ここの外側にいる人間の視点をみんなに認識させてしまうので、いつも結果的に、しかし必然的にそうなってしまう。

構造は理解できるのですが、自分では制御できません。

困ったものです。

 

さて、そんな私の新たな妄想。

FF10のラスボスをめぐる一連のメカニズムは、グローバル資本主義の比喩なのではないか、ということです。

 

FF10では、「シン」なる謎の怪物が人間を襲って街を破壊し続けているので、それを討伐することを目的に旅が始まります。

シンを倒す唯一の方法は、特別な修行を積んだ召喚士による「究極召喚」ということになるのですが、それで話は終わらず、シンは究極召喚によって倒れた後も、何度でも確実に復活してしまうのでした。だからシンは「死の螺旋」と呼ばれます。

主人公たちはそこから人々を開放する手段を模索し、最終的にその謎を突き止めます。

1000年前に戦争に負けて滅ぼされた民族の中に大召喚士エボンという人物がおり、その魂「エボン=ジュ」がシンを討伐しに来た究極召喚に憑依して、新たなシンが生まれてしまう、つまり、シンを倒す唯一の方法それ自身によって新たなシンが生まれる、という無限ループに取り込まれているのです。悲劇を終わらせようとする営為そのものが悲劇の始まりになるのです。

 

とまあ、ネタバレアリでFF10のざっくりした話をご紹介しましたが、これって、現代のグローバル資本主義と全く同じ構造じゃないでしょうか。

 

前回の記事でSDGsにいささか批判めいたことを書きましたが、結局、「持続可能」ということは、グローバル資本主義を続けながら、問題を自己修正していこう、ということです。そんなこと、可能なんでしょうか。

 

共同体の内部で循環し続ける規模の小さな定常型経済なら持続可能な気がしますが、グローバル資本主義は、自己の内部から生まれる諸問題を都市や国家の内部で解決することをはじめからあきらめて、外部化し続けているわけです。

たとえば自分の国に生産に必要な資源が不足していれば海外から、それも途上国から現地の人が生活できないような安い価格で調達しますし、労働コストを最小化できるなら、自国民を雇用するよりも人件費の安い国に工場を移します。

無限の市場拡大と人的・物的資源の収奪、その結果としての環境破壊と格差拡大。これこそが社会や環境の持続可能性を脅かし、無制限の競争によって人々の精神を頽廃させていく、「悪魔の碾き臼」なのです。

 

しかし、そのシステムは重大な欠陥を内包しているとはいえ、人々の生活欲や自由への欲求によって駆動されている面もあるわけです。

当然、〇中平蔵みたいな悪党はおりますが、そんな奴はいつの時代のどんな社会にもいるもので、目の敵にしてつぶしたところで、代わりは次々に現れるでしょう。

※地軸の延長線上にある天体を北極星と言いますが、現在は「ポラリス」という星がそれにあたります。

竹中〇蔵(わざと★)は新自由主義という名の地軸を中心として自転を続ける世界における北極星のようなもので、別に彼でなくても、軸を延長したところにそれで儲けることしか頭にない人間というのはいるのです。

 

だから少数の悪い奴がどこかにいて、そいつを排除すればこのシステムが止まるのか、というとそうではない。

我慢しないで欲しいものが買えることや共同体から自由になること、ある意味で人々がゲノム的にも持ち前の利己性を発揮し続けることそれ自体がグローバル資本主義の駆動力です。

利己的遺伝子に従えばどんなに小さくとも自らがそのシステムの一部として取り込まれ、それによって「循環」ではなく「破壊」によって成り立つ持続不可能なシステムを再生産してしまっている。

この比喩で言えば、シンはグローバル資本主義、エボン=ジュはこのシステムで生きているすべての人々、あるいはもはや人格以前の人々の利己的遺伝子それ自体、「死の螺旋」も「悪魔の碾き臼」も、破滅と破壊をもたらすメカニズムを指す同義語です。

 

FF10の脚本家は、どんなイメージでこの物語を書いたのでしょうか?

もしかしたら、頭の中には資本主義社会のイメージがあったかもしれません。

 

…という、最近の妄想でした。