ユウナレスカを倒した。

強すぎだろ。

でも、この理不尽な強さが、かえって物語の圧倒的理不尽さとリンクしていて面白い。

 

ユウナレスカが言っていることって、シーモアとほとんど同類だからね。

まやかしの希望にでもすがって生きてろ、って主張だから。

そうするとあんな美女がFF史上でも有数のキモいルックス(第三形態)になっちゃうのね。

 

ちなみに、FFは特に天野画伯のキャラデザインが、キモい・グロい・エロい・何がどうなってるのかわからないということになりがちで、人間の女性の体をした裸同然の敵が出てきますね。

ここまでは、まあ、仕方ない。

でも、私はゲームにそういうものは求めていないので、アニメやゲームの女性キャラが、異様に露出度の高い衣装で巨乳を揺らして戦っているのは、はっきり言って嫌いです。うんざりします。

もっとキャラクターの内面が表現された服装・スタイルにしてほしい。

 

…ちょっと脱線しました。

 

前回からここまでで、さらに気づいた点。

・ティーダがジェクトを嫌っていたのはエディプスコンプレックス

・シーモアも母親が祈り子になるという形で、理不尽に生き別れている

(セフィロスが「母さん…」と母の名を呼び続けるのと似ている)

 

ヒーローとラスボスを動かしているのは、母親の姿を追い続けるコンプレックスなのだ。

コンプレックスは世界を動かし、歴史をも変える。

 

まだ最後まで見てないから何とも言えないが、とにかく物語はずっと螺旋構造の理不尽。

 

大昔の戦争

→罪(誰が裁くんだ?)

→シンが現れる(何から生み出される?)

→召喚士にしか倒せない(機械文明に頼るのも禁止)

→祈り子&召喚士の命が必要(究極召喚の原理)

 

→それでもシンは復活する

※エヴァンゲリオンや進撃の巨人のように(って言っても実は両方ともちゃんと見たことがないのだが)、目的や正体が分からない強大な敵と永遠に戦い続ける、という設定に似ている

 

→虚しいから自分は死人となって生きる老師たち

→虚しいけど「究極召喚からの一瞬のナギ節」という「希望」に執着するユウナレスカ

→エボンの教えにも究極召喚にも頼らずにシンを倒し復活も阻止する、というのが最大の目標に

 

→ティーダやジェクトを含むザナルカンドは「夢」(戦争を生き延びた人々が保存したがった記憶)

※この点は、FF7や9のように、「死んでも生きていた人の記憶は保存される」という発想にも通じるものがある。

おそらくシナリオを描いた人の生命観なんだろうね。

 

さて、あとは満を持して登場したムービー2シーンについて

①ティーダとユウナのキス

イケメンならこれも許される。これがモテる男とそうでない男の違いだ。

つまり、自分には相手を愛する資格がある、と確信を持てるということ。

夏目漱石が「愛は愛せらるる資格ありとの自信に基いて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。」と言っている。

シーモアみたいなキモいストーカー野郎に聞かせてやりたいが、そういう勘違い野郎のわいせつ行為に汚されたユウナを浄化する意味でも、また、「普通の人間」として生きることを想像して「それもいいかも」とつぶやくも「でも、できないよ」と言って泣いたユウナに、恋のときめき(=生きる喜び)を与えるという意味でも、あの場面でユウナを救えるのはティーダのキスだけなのだ。

弱っている女の子に優しくした場面でキスまでするのはちょっと反則という気もするのだが、あれでユウナは救われているし、それができるのはティーダだけなので、それを自覚できる男なら、いきなりキスでもいいのだよ。わかったか、シーモア。

モテない男として画面の前でボタンを押している自分はファンタジーとしてそれをしみじみかみしめるのだった(泣)。

少なくとも俺はシーモアよりはいい男だ(キリッ!)

 

②オープニングムービー、「ここだったのか!」

何これ?誰これ?どういう状況??

で始まったオープニングムービー。

ザナルカンド遺跡に、究極召喚(=ユウナの死)を求めて旅立つ直前の光景だったのね。

この構成には、やられたねえ。

なんとドラマチックな。

一度使ったら、2度は使えない手法かな。

 

さて、そろそろ最終盤。

私水曜が仕事お休みなので、そこでクリアしたいな~。