20年来、ずっと思っていることがあります。

 

日本人にとって、「自分の言葉」が、今相当な危機に瀕しているのではないか?ということです。

 

基本的に、「理解する・分かる」というのは、新しい対象に対して、自分がすでに知っている言葉(経験)の中から同じものを探してマッチングする、という作業のはずです。

そのことを通じて知識は広がっていく。

 

このマッチングには相応の時間がかかるし、そこにはしばしば批判的な思考のプロセスがあり、その批判に耐えたものしか、言葉としては定着しないはずなのです。

 

以前プログラミングの勉強をさせられたとき、「植民地支配だな」と感じたことがあります。

パソコンを触っているときなどに出てくるエラーメッセージ、あそこに使われている言葉の意味って、さっぱり分かりませんよね?

で、分からない方が悪いかのような開き直りぶりじゃないですか。

あれは、相手が知っている言葉に置き換える、という「作法」を完全に無視した、ひどく無礼な態度だと思います。

そして、そういうものが世の中を席巻しているのです。

 

他にもビジネスの世界では借り物の外来語が幅を利かせています。

学者の書く書物も少なからずその傾向にあります。

 

「プレゼン」…相手に思考のチャンスを与えずに自分勝手な主張をするときに用いる紙芝居

「コンプライアンス」…破ると損する法律だけは守るが、それ以外なら何をやってもいいという態度の、倫理観・公徳心欠如の象徴

格好つけているだけで、ろくでもない言葉です。

 

外からだけではありません。言葉に対する感受性が劣化した日本人は、植民地支配に無抵抗で屈服しつつ、生得の言葉、生得の倫理をも放棄しつつあるように思えます。

SNSには「キモイ」「ウザい」「ヤバい」に始まり、「若者言葉」「言葉は時代とともに変化する」などという軟派な理解では許容しかねるような異様な日本語が流通し、仕事をしていてもおかしな日本語だらけの文書やメールが飛び交っています。

 

そして、あろうことか文科省が英語英語と馬鹿の一つ覚えのように騒ぎ立て、グローバル人材、などという実際にはほとんど存在しない例外的エリートを育成することを目標にし、高校での国語学習から文学的文章を削減し、どんどんトチ狂った方向にこの国を誘導しようとしています。

 

未曽有の危機に次々に直面する滅びゆく社会で、それでも自分の魂を救うべくもがき続ける人にとって、目の前で起こっている出来事を自分の言葉で咀嚼し、記述し続けるという努力は、絶対に必要なものであると確信しています。