私は最近、冗談抜きに、自分がものすごい愚か者であるように感じることがあります。

感じる、というより、実際そうなのでしょう。

 

私は仕事柄、若い人たちと接する機会が多いのですが、彼らは自立して自分の人生を生きるということを、かなり真剣に考えています。

 

…、「当たり前」ですね。

特に男子より女子の方が、そのことを強く意識しているように思います。

自立して自分の人生を生きる、という当たり前の動機を抱くのに性差があるということを目撃して、やはり男と女は別の生き物であり、男の方が二次的な性なのだな、と納得せずにはおれません。

 

最近では、若い女性がちょっとスケベな格好をしてユーチューバーやってたりしますよね。

で、私なんぞはつい見ちゃうんですよ。

それを見て、自分の愚かさを再認識するわけです。

 

愚かさとは、いい歳して若い子の肌にたぶらかされている愚かさ、ではありません。

スケベにはいいスケベと悪いスケベがあり、僕のはいいスケベですので、愚かでも何でもないです(キリッ!)。

 

彼女たちを下に見ている自分は、果たしてそんなに立派なのか?ということです。

 

この姉ちゃんたち(アイドルとかもそうですが)、学校も行かず、ろくに勉強もせず、胸とか尻とか写真にとって、男の欲望を刺激することを楽しんでいる、とんでもねえクソガキだな、親は何考えてんだ、とか批判的な気持ちで見ることが多かったのですが、彼女たちが「時給以外の働き方で金を稼いで自立することを目標としている」という視点で眺めたときに、学校に行って組織にやとわれて給料をもらう生き方を率先してやってきた挙句に、ろくに自立もできていないおっさんの自分より、よっぽど人間の世のあたりまえの摂理に目覚めているんじゃないか、と考えてしまったのです。

他者の必要や欲求を満たす、他者から求められる自分を、交渉や競争が可能なレベルまで磨き上げていく、そうした努力を積み重ねているようにも見えます。それこそが本当の「経済的自立」であり、給料あてにしてダラダラ働いて文句ばかり言っている自分とは人間としても成熟度が上かもしれません。

 

さて、私はこのほかにも「当たり前」のことを全く理解できていない残念な人間です。

 

太宰治の『人間失格』の冒頭の描写、「第一の手記」は、「恥の多い生涯を送って来ました。」という一文で始まります。

そして、主人公が「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」と告白します。


 自分には、人間の営みというものがだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。

 

要するに、私が言う「当たり前」が理解できない、というのと同じですよね。

で、こういう人間って、いるんだと思います。

 

物理学者って、「リンゴが木から落ちる」という「当たり前」の現象を、「万有引力」という法則を持ち出して説明しようとしますね。

「当たり前」を成立させるための条件があることを見抜き、その条件を徹底的に明らかにしようとする。

エネルギー保存の法則とか、質量保存の法則とか、そういう法則が当てはまることをいちいち明らかにしていって、論理的に破綻のない、「物理学」という名の言語体系を作り上げているわけです。

 

それって、普通の感覚ではないですよね。

落下したリンゴを見て、「リンゴが地面に引き付けられている!」と感じるわけですから。

そういう人は経験だけを頼りに物事を理解するのとは異なる理解の仕方をする人種であり、ちょっと変わった人のはずです。

そして、物理現象以外のことについても、こうした「当たり前」のことを、ことごとくその前提条件から考え直さないと納得しない人たちがいます。哲学者です。

 

彼らはすべての「当たり前」を疑い、物理学と同じように、しかも自分にしか理解できないような言語体系を何百ページ・何千ページにもわたって書き残し、生涯をその仕事に捧げたという、究極の変人です。

 

私は彼らほど変人でもないし、本を書けるほどの教養も才能もないので、こうしてブログに駄文を掲載して数人の暇な人(失礼!こんなもの呼んでいるあなたはすごい暇人ですよ!ありがとう!!)に読んでもらっているだけです。

 

しかし、「当たり前」のことに感謝する、ということができるには、一度はその前提を脅かされるような経験をして、文字通り「有難い・めったにない・かけがえがない」ということを理解しなければなりません。

 

健康であること、家族や友人がいること、自分に仕事があること、衣食住に困らないこと、

好きな人と会話できること、

飲食店に入れること、

お酒が飲めること、

 

ねえ。

 

いま、「当たり前」が動揺していますよね。

それと同時に、今までの「当たり前」って、これからも「当たり前」であるべきなのか?という疑念も沸いていますよね。

 

ここで、考えることをやめてはいけないのです。

人間失格の葉蔵のような人種は、こういう時に必要なのです。

「当たり前」を簡単に受け入れない人間こそが、「考える」ということをやめない人間なのです。

 

今日もスタイル抜群のお姉ちゃんがフィットネスジムでお尻のトレーニングしている動画をYoutubeで眺めては、「当たり前」を自分の言葉で理解するのが知性であり、成熟であり、哲学であると思いつつ、己の愚かさをかみしめておりました。