何でもない、当たり前の日常こそが幸福そのものである、という表現もまた、ありふれています。
タイトルに使ったのは虎舞竜の『ロード』の歌詞ですが、
家族がいること
健康であること
衣食住に困らないこと
平和であること
これらは、普遍的にすべての人にとって「なくてはならない大切なもの」であるはずですが、あまりにも当たり前すぎて、しばしば、愚かな人間はそのありがたみを忘れてしまいます。
風邪をひいたときに、健康のありがたみを思い知りますよね。
「本当に大切なものは失ってはじめて気づく」などという逆説的な言い方もあります。
誰しも経験があることでしょう。
40手前で独身の私の家族と言えば、年老いた母、祖母、叔父、あと、一人暮らしをしている姉です。
祖母は寝たきりで施設に入っており、もうまともに会話はできません。
母は先日骨折して入院し、先日退院したのですが、あと10年もすれば歩けなくなりそうです。
叔父は緑内障でほとんど目が見えず、日々の生活にも支障をきたしています。
「家族」は、そろそろおしまいになりそうだ、ということを、ひしひしと感じています。
また、最近は自分自身も明らかに体力が衰え、あちこち痛くなるし、おなかが出てくるし、抜け毛も酷くて生え際後退してきたし、「もう若くない」ということを実感しています。
仕事は相変わらずで、そろそろ大きな判断が必要になっている気がします。いつまでも同じことは続けられなそうです。
収入がなければ、今の生活は維持できません。
一方、「もう日本は終わりだ」と多くの人が嘆いている通り、このトチ狂った世界は本当に破滅的な様相を呈してきました。
政治・経済・文化・教育、ありとあらゆる領域において、もうどうにもならなくなった仕組みを動かすことだけが自己目的化しており、そこに動員される人々は皆うんざりした気持ちで、来る日も来る日も生産性の低い無意味な仕事に心身をすり減らされています。
クソ暑い中、毎日マスクして、「新しい(異常な)日常」?やってらんねえよ。
コロナのような出来事が起こって、「何でもない普通の日常」は、実はものすごくたくさんの条件に支えられており、何かのはずみでその条件が失われると、不幸になります。
人生とは、循環です。
循環の中を生きるとき、人は幸福だと思います。
生きていれば、おなかがすきます。
性欲がわきます。
食欲も性欲も、一度満たされても、数時間後にはリセットされて、また循環を欲します。
自然界は循環です。
命も循環です。
経済も循環、教育も循環です。
格差とは、お金の循環がおかしくなることです。
「新しい日常」とは、循環がおかしくなった日常です。
いま、この世界は、あらゆるものが循環していない状態であり、そこで生きている私もまた、循環が止まった生を生きていることになります。
幸福とは、循環です。