SNS時代と言ってもいいし、YouTube時代と言ってもいい。

とにかく、個人が情報を発信できるようになった。

 

それは、技術・サービスあるいはビジネスモデルとしてのプラットフォームが整備されただけでなく、本来、本質的に、人間というものが、自分の感じたことや考えたことを他者と共有したい、あるいは共有せずにはいられない、という欲求・欲望・衝動を持った生き物であることによってもたらされたものだと思います。

 

私は中学生のころWANDSが好きだったのですが、解散後に一部のメンバーでできたalnicoという(マニアックすぎて市場では相手にされない)バンドが、「worst crime」という曲をリリースしていて、その歌詞にこんなフレーズが出てきます。

 

孤独を抱えて見るのはきっとただの夢で

二人で見たならそれは現実だなんて

I don't know

分からない

 

これは、なかなか面白い歌詞だと思います。

 

個人の経験、見たり聞いたりしたことは、自分一人では、嘘か本当か確信が持てないのです。

UFOを目撃したとして、隣に人がいたら、その人は何というでしょうか。

…「今の見た!?」

 

先日、プロ野球が再開されたことについての記事にも書きましたが、同じ経験をした他者との経験の共有・共感、

これがないと、人間の経験というものは「リアリティ」に欠けるものになってしまうのです。

どれぐらいリアリティに欠けるのかというと、「自分でも経験したのかどうかわからなくなってしまう」ぐらいです。

 

たとえば、鍵をかけて家を出てきたのに、「あれ?鍵かけたっけ??」と、後になって不安になる人っていますよね(私がそうです)。

そして、隣に誰かがいて、「君は鍵をかけていたよ」と言ってもらえれば、100%安心しますよね。

そういうことなんです。

 

現代の社会は、一人ひとりの経験が、非常に細分化され、個人化してしまったために、自分と同じ経験をしている人が(多かれ少なかれ必ずどこかにいるはずなのだけれど)身の回りには見当たらず、それゆえ感情を共有することもできず、人を信頼したり、親しい関係を築いたりすることが難しい環境になっています。(友達ができないことに悩んでいる若者がものすごい数いること自体、そのことを表しています。)

 

そういう世界では、もう、「普通」というものは存在しません。

スタンダードもなければ、ロールモデルもありません。

 

そして、孤独な一人ひとりの男女が、自分の経験に対する「リアリティ」を得たいがために、「一人で食べた今日のお昼ご飯」の写真をSNSに投稿して、自分の経験が「リアル」なものであったと確認したいのです。

(「承認欲求」だけに注目する人はこの点を見落としています。)

 

かくいう私も、こんなしょうもない文章をブログにアップしている時点で、自分が感じた今日の経験を、誰かに共感してもらいたい、と思っているわけです。

 

そして今日、例えばユーチューバーのように、共感されることをビジネスにする人もいますし、共感は時に成長して、文化やムーブメントなどの社会現象として伝播したり、政治的影響力を持ったりもします。

 

この先、現代人が「バーチャル」なネットワークとコミュニケーションによってどうやって個々の経験や感情を「リアル」なものとしていくのか、そして、「リアル」な他者との関係性や社会の在り方を構築していくのか、興味半分、絶望感半分です。