誕生肯定とは何か。

 

それは、「生まれてきて本当に良かった」と思えることです。

それは、偶然の賜物であると同時に、必然的な奇跡であるとも思います。

それは、ある神秘的な意思の存在を確信し、感謝することであると思います。

 

つまり、誕生肯定とは、神の存在を肯定することと同義です。

 

私は無宗教な人間です。

もし宗教を問われれば「仏教徒」と答えることにしていますが、本物の仏教徒が怒りそうなぐらい信心が足りませんので、

そういう意味では、やはり、無宗教です。

 

にもかかわらず、私は最近、「神は存在する」とつぶやくことがあります。

ここで言う「神」は、「神秘的な意思」というぐらいの意味です。

決して、「○○教の神」というものではありません。

 

神は、存在する。

 

つまり、すべての意思を持った存在物が、

自ら「生まれてきて本当に良かった」と思えること、

それ自体を目的として、

偶然性(存在物の「意志」によっては制御不能な無限なる「何か」)を仕組んだ意思が、

確実に存在する。

 

そのことに対する確信が、「誕生肯定」です。

 

さて、「誕生肯定」は、「反出生主義」の対義語です。

 

「人生は無理ゲーである」という感覚は、自分の意志や努力によっては、本当に欲しいものを手に入れたり、本当に逃れたい苦しみから解放されたりすることが原理的に不可能であった、という確信に基づいているはずです。

 

その場合、人生は「苦」の連続であり、不幸です。

自分の人生がそういう状態のまま、未来永劫解放されることはないだろう、という予感が心を支配しているとき、人は、「生まれてこなければよかった」と、運命を、そして人生を呪います。

「反出生主義」とは、その感覚にとどまって自分をこの世に産み落とした力学を呪い続ける、あるいは呪わずにはいられない、

そのような魂の「症状」なのだと思います。

 

しかし、そこで立ち止まるわけにはいきません。

「人間とは、無益な受難である」と言ったのはサルトルですが、

それは結論ではなく、思考の出発点です。

 

言い換えれば、

人生は「無理ゲー」であり、

この世は「どこまで行ってもクソ」であり、

「右を向いても左を見ても馬鹿と阿呆の絡み合い」です。

 

そのことに気づいてしまったとき、その時に生じるものが「反出生主義」ですが、

そこからもう一歩前に、ほんの少しだけ前に進めるのなら、

「誕生肯定」に至る希望はまだ残されているはずです。

 

…、長くなってきたのと眠くなってきたので、今日はここまで。