性欲衝動のことを「リビドー」と言いますね。

誰もが持っているし、特に男性の場合、「お前の行動は、すべてリビドーによって動機づけられているのだよ」と言われたら、納得してしまう人が多いのではないでしょうか。

それほどまでに、強烈な衝動です。

 

しかし、同時にその衝動は、白昼の社会生活の下では隠蔽され、人前に出してはならないものになっています。

理性の力でこれを制御できない人は、逮捕されたり訴えられたりして、ひどい目に遭います(当然ですが)。

夫婦や恋人同士、つまり、当事者同士が互いに求め合う間柄であるということを確認済みであれば、「公序良俗」というコードに触れない程度には、昼の街中でも、身体的な接触が許容されています。

しかし、つがいになれないオスなどは、そんなもの見せつけられたらますます苦しくなりますね。

仏教でいうところの「求不得苦(求めている者が得られない苦しみ)」ですね。

ここに、ポルノグラフィーやアイドル(偶像)に対する需要が生まれます。

 

不思議なことに、獰猛な野生動物であっても、リビドーは「発情期」という形で期間を限定して現れるものであり、なおかつ求愛行動が成功しないとやはりその欲求は成就しないという、制約の多いものになっています。

結局一生交尾をすることなく死んでいくオスも、野生動物の中にはたくさんいるとのこと。

厳しいですねえ。

 

さて、「反出生主義」という言葉をご存知でしょうか。

読んで字のごとく、「生まれてこなければよかった」という発想のことです。

まあ、「主義」というよりは、「感情」という気もしますが。

 

街を歩いていると素敵なカップルや美しい女性がたくさんいて、その刺激によって、彼らと自分を比較して、勝手に「自分は惨めだ」「不幸だ」と思ってしまうように、人は他者と自分とをどうしても比較して、今生きているこの人生に対する自己評価を下しています。

SNSやユーチューブも同様です。

 

いいなあ、あんなカッコいい仕事ができて。

いいなあ、あんなにお金がもらえて。

いいなあ、あんな美人とセックスできて。

 

大人になってからというもの、気が付くと、お金や服や車や、地位や名声や権力や、そういうものを手に入れるレースに、知らず知らずのうちにからめとられています。

そして、メディアから毎日のようにシャワーのように浴びせられる刺激を受けて、いつしか他人の欲望が自分の欲望になり、そのレースから降りられなくなっていきます。

その根底にはやはりリビドーがあるのだと思いますが、とにかく、

人間もまた他の生物と同様、自分の遺伝子を残すために、後ろから刃物を突き付けられて生きているようなものだとすれば、「断捨離」だの「自分らしさ」だのと気取ったところで、どうしてもその評価のレースから自由になることは難しい。

 

さらに、私などは「就職氷河期」ど真ん中の人間ですし、以前の記事にも書いた通り、「あんなに努力して我慢して成果もあったのに、誰からも求められないってどういうこと?」という恨み節で生きている面がありますので、このレースを「無理ゲー」と感じ、「やってらんねえ」と思っています。

 

そういう人にとって、「どうせ無理ゲーだったんだから、生まれてこない方が良かったんだ」という気持ちは、

ある意味、当たり前だと思います。

私はまだ、「人のせいにするな」・「時代や社会のせいにするな」と、上から目線で説教する人に対しては「うるせえ、お前に何が分かるんだよ。」という感想を禁じ得ないので、半分ぐらい、「自分なんて生まれてこない方が良かったのかもな」と思っています。

 

しかし、動物は、無理ゲーでも、挑み続けますね。

健気に。果敢に。

そして、敗れ去って無意味に死んでいく。

それを、無限回繰り返しているように見えます。

 

自然淘汰と適者生存という摂理は、意外と容易に「自己責任」の言説と結びつきます。

そうした言説がさらに、「自分なんて…」といじけている人々の心をいじめつけます。

 

リビドー ⇒ 人生=無理ゲー ⇒ 求不得苦 ⇒ 反出生主義

 

この流れは、ほとんど不可避の必然になっている。

さて、ここからさらに考えるべきものがあるとすれば、それは、反出生主義の反対物、ということになります。

 

つまり、「生まれてこなければよかった」の反対、「生まれてきて本当によかった」という、「誕生肯定」の発想です。

 

つづく。