さて、続きです。

 

タイトルにある、「ナルシシズム」と「般若心経」に、何の関係があるのか。

 

ナルシシズムは、生まれた直後からの、自分と世界との関係性(敵or味方)の認識に端を発している、ということが分かりました。

実際には、世界は敵でもあり味方でもあるわけで、そこにバランスよく折り合いをつけていかねばなりません。

これこそが、とっても難しいことであり、生きることの本質であるといってもいいかもしれません。

ナルシシストは、このバランスが、良くない。

鏡に映ったすべてのもの(=世界)が、100%自分の「味方」であると思い込みたいのかもしれませんね。

 

そう考えると、個々人の性格というものは、

世界が敵でも味方でもあるということに対する折り合いの付け方のバリエーションなのかもしれません。

 

完璧主義者とか、生真面目な人とか、神経質な人、

あるいは正義感が強い人や白黒はっきりさせたがる人、

こういうタイプは少しでも「敵」がいると我慢できず、そこに躓いて不快を感じやすいのかも。

 

ちなみに、幼少のころに「抑うつポジション」(母親が敵でも味方でもあったという事実に対する葛藤)をうまく克服できなかった人は、うつ病になりやすいそうです。

反抗期がなかったような「良い子」とか。

僕なんかまさにそうです。

 

しかし、そうは言っても、この世はどう考えても敵だらけです。

無垢な子供はやがてこの世界の残酷な摂理や様々な理不尽、そして自分自身の弱さを認識して、それこそ絶望します。

そうやって傷ついて、試練を乗り越えるたびに、表情からあどけなさが消えていき、凛々しくなっていきます。

なってしまう、と言ってもいいかもしれませんが。

 

パスカルが「人間は考える葦である」という有名な言葉を残していますが、この続き、ご存知ですかね。

私は大学生の時に『パンセ』の中のこのフレーズを声に出して何度も読んでいたら、自然に覚えてしまいました。

 

人間はひとくきの葦にすぎない。

自然の中で最も弱いものである。

だがそれは考える葦である。

彼を押しつぶすために宇宙全体が武装するには及ばない。

蒸気や一滴の水だけでも彼を殺すのに十分である。

 

この後、人間が圧倒的に強大な宇宙を前にして、やがては死すべき有限の存在であるということと、同時にそれを自覚しうる(考えることができる)ということこそが、人間の尊厳や道徳の起源になっている、という意味の説明が続きます。

抽象的ですけど、気迫のこもった文章だと思います。

この、「蒸気や一滴の水」なんて、素晴らしい表現ですね。

付け加えるなら、目に見えないほど小さなウィルスだけでも、世界を混沌と破滅に陥れるのに十分である、ということを、今我々は目撃しているわけです。

 

で、何が言いたいのか。

つまり、「自然の中で最も弱い」という惨めな人間にとって、

この世は、この宇宙は、基本的に敵だらけ、不幸の種だらけ、つまり「苦」だ、ということになるのです。

 

すると、仏教的な発想、

生老病死、すべてが苦だ、という、究極にネガティブな発想は、ナルシシズムの起源と重なるものがある、ということになります。

 

宗教というものは多かれ少なかれそこからの救済や解放を目指していますよね。

「天国」や「浄土」、あるいは「輪廻」というものは、今生では得られない救済を死後の世界に求めるものでしょう。

 

私は先祖の墓が臨済宗のお寺にあるので、一応仏教徒、ということにしているのですが、般若心経すらろくに覚えていないレベルなので、宗教について知識もなく論じるのは気が引けるのですが、それでも、映画の中で、キリスト教の葬儀のシーンなどで「この世では得難き平安を…」などと牧師さんが語っているのを見たことがあり、基本的に宗教というものの基本的な認識としては間違っていないのではないかと思います。

 

さあ、この記事の本題。「ナルシシズムと般若心経」。

 

「ナルシシズム」=「抑うつポジションのこじらせ」を克服しようとすることは、

世界が「苦」であるということにどう折り合いをつけるのか、ということと同義であり、

宗教が取り組んでいる課題と根っこは同じなのではないかと思ったのです。

そして、神や仏といった、超越的で神秘的な力による救済を当てにしないのだとすれば、それは、すべてを「空」だと考える、般若心経の考え方が、「しっくりくる」のではないでしょうか。

 

そんなわけで、今度は般若心経についての本を読み始めたところなのです。

 

つづく。