働いている人なら多かれ少なかれ誰でも理解できることだと思いますが、記憶力や知識といった意味での「学力」とか、過去にその能力を証明した証としての「学歴」というものだけでは、社会人として活躍できるかどうかのポテンシャルは分からない、という考え方が最近のトレンドになっており、大学入試改革や教育改革、あるいは採用をめぐるさまざまな議論においては、旧態依然たる評価基準を一刻も早く脱却せねばならない、という話になっています。
従来型の受験勉強やテストの点数では測定できない様々な人間的諸能力を「非認知能力」と呼ぶんだそうですが、私はこの言葉ほど怪しいものはないと思っています。
まず、完全なる無能力者というものは存在しません。
また、ある人の存在が、過去にも未来にも、この世に一つとして同じものが存在しない、そういう比類のない存在者であるという時点で、その人の潜在的可能性は文字通り計り知れないものです。
極端な話、たとえ寝たきりであっても、家族にとってはかけがえのない存在である、ということはあるわけです。
あるいは、女性。
女性って、そこにいるだけで、周りにプラスの影響がある、ってことありますよね。
なぜアナウンサーは「女子」なんですか?
テレホンアポインターや受付、野球場のウグイス「嬢」、
病院で「ケア」の仕事をする人(看護師さん)、
その他諸々、枚挙にいとまがありませんが、同じ内容の仕事は男性にもできるけど、でも、やっぱり女性がやった方がいろいろうまくいく、周りにプラスの影響を与える、っていうことは多分にあるわけです。
「性」というもの自体、その人を構成するかけがえのない条件じゃないですか。
目には見えないその人の人間性を「非認知能力」と定義して生産性に結び付けようとするのは悪いアイデアではないと思いますが、一方で、それは他者を常に生産活動に動員しようとする目論見と表裏一体であり、本来人間が人間(他者)の能力を測定したり、評価したりすることには限界がある、という前提のもと、ある程度「いい加減」な遊びの部分を残しておかないと、「生産性のない人間には価値がない」という極端な思想と容易に結びつく危険があると思います。(これは本当に現実的にすぐそばにまで迫った危機だと私は思っています。)
日本は今、政治・経済・文化・教育等々、すべていにおいて既存の(伝統的)システムが機能不全に陥っており、みんなのフラストレーションがたまり、平成の30年間を敗北と失敗の歴史として評価し、自己否定と自己嫌悪の連鎖で絶望しながら、荒唐無稽な「突破口」に飛びつきたがる機運が高まっていると思います。
でも、そんな「突破口」なんて、あります?
失敗を反省することも、事実をきちんと認識して「正しく」絶望することも、前に進むために必要だとは思いますが、それは忍耐と苦悩を縄のようにあざなえた長い道ですよ。
新しい言葉にホイホイ飛びついて希望を語るのも結構ですが、そういう現状を打開してくれそうなカッコいい言葉を見ると、私なんぞは胡散臭さやいかがわしさを感じ、なんとか屁理屈をこねて足を引っ張ってやりたくなるのです。