人間は全員違います。

一人として同じ人間はいません。

外見もそうですし、中身もそうですし、空間的にも時間的にも、同じ状況というのはありえませんので、すべての人間は、一人きり、すべての人生は、一回きりです。

 

さて、その人生の中で、自分と同じような感受性を持ち、自分と同じような経験をしており、自分と同じような考え方、感じ方をする人、なおかつ母国語を共有し(共有していなかったとしても何らかの言語またはコミュニケーションの様式を共有し)、意思の疎通ができる相手、というのは、この世にほとんどいないことが分かります。さらに、物理的な条件として、自分と「出会う」ことができる人でなければなりません。

 

友達とか、恋人とか、そういう人は、ほとんど奇跡にも近い存在であり、私には与えられませんでしたが、今そういう人と巡り合えている人は、ぜひともその人のことを大切にしてください。出会おうと思って出会えるわけでも、作ろうと思って作れるわけでもなく、偶然によってのみ成立する関係ですから、その人と等しい愛と尊敬が築かれているのならば、それは間違いなく奇跡と言っても、あるいは運命と言っても良いような、特別な関係性なのです。

 

さらに、そういう意味において、自分と同じような感受性の人間など、(政治による恣意的な誘導または圧力なくしては)ほとんどこの世に存在せず、人間の種類をどんどん細分化していくのなら、すべての人間はマイノリティーです。

 

LGBTとか、発達障害とか(「障害」というのは多数者から見て脳や遺伝子の器質的に異質であるというだけで、その人のありのままの姿がそうであるなら、「障害」でも何でもないのです。ただ、社会生活を営む上で適応上の困難が生得的に埋め込まれており、何らかの治療や支援の対象である、ということはあり得ます。)、その他諸々の少数者は、決して例外的他者ではなく、今日のように情報化と個人化・個別化が進行し、何も共有していない者同士が同じ空間に放り込まれている状況がほぼデフォルトとなっている世界においては、ほとんど自分たち自身そのものである(少数者という意味で同質性が生まれてしまう)存在なのです。

 

さらに、そういう異質かつ同質な他者同士がバラバラに存在しているにもかかわらず、そこに存在しているという事実によって、マイノリティー同士は同じ社会を構成し、ともに生きています。

 

ところが、世界は一つしかなく、制度や法律も、それぞれ一つ(ずつ)しかありません。

自分のコントロールが及ばない(選挙という方法もありますが、自由自在になるわけでもありません)という意味で、選べません。

だから、誰もがこの社会にある程度適応し、時にクレームを申し立て、時に服従し、時にテロリスト的な自爆を企てながら、死が訪れるまでの間、この世界で生きていく(あるいはこの世界を去っていく)ことを宿命づけられているのです。

 

例えば私は、とにかく資本主義が嫌いです。

この制度は、悪魔の制度ともいうべき、最悪の制度です。

ところが、今まで地上に存在したいかなる経済原理よりも「マシ」なのです。

 

いま、世界でも、日本国内でも、絶望的な格差が存在し、拡大し、誰もそれを止めることができないでいます。

それは資本主義(人間の欲望を集合化することを通じて循環するシステム)のせいだと断じて間違いないのですが、このシステムは止まりません。

私が適応できないのも、「生きづらさ」を20年以上抱えて今も身をよじらせながらもがいているのも、すべてはこのシステムが駆動しているからなのですが、それでも、このシステムが優れている点があるとすれば、それは誰もかれもを少数者へと分解し(労働コストを最小化する、あるいは労働生産性を最大化するという目的に照らせば、あらゆる事象の細分化と最適化が必要だから)、そのことを通じて、一つの世界でできるだけ多くの人に「入り口(可能性)」を開放しているということかもしれません。

 

70億人いて、同じ人間は一人もいない、でも、世界は一つしかない、でも、すべての少数者に入り口を開放している、そういう自己矛盾を駆動力として循環し続けているのが資本主義なのではないでしょうか。

 

ああ、生きづらい…。。。。

でも、マシなのか…。。。。