私は常識的な人が、正直苦手です。

非常識な人はもっと苦手ですが。

 

じゃあ、人間全部苦手じゃねえか、といわれそうですが、まあ、その通りです。

 

しかしここでいう「常識的な人」とは、「自分の感受性が多数派と一致している、という自信ゆえに、そうではない人間を一段高いところから糾弾する(こわい)人たち」のことです。

 

世の中で凶悪な事件があると、たいてい「許せない!」などとネット上でコメントして吹き上がる人たちがいます。

今回も例にもれず、某ネットニュースのコメント欄では、この種の書き込みが数えきれないほど投稿されています。

 

通り魔殺人の被害者に何の落ち度もないことは言うまでもありません。

犯人の行為が正当化できるものとも、とても思えません。

しかし、犯人がこの社会に適応できていない人物だった、ということはどうやら事実であり、その点において、私はこの犯人のような人間は一定の割合で必然的に生み出されるに違いないと思っています。

「やっぱ、そういう人、いるよね。当然。」って感じ。

 

彼に同情もしていないし、共感もできませんが、適応できなかった人間がルサンチマンをため込んで、完全に追い詰められたところでやけくそになって「自爆」する、というメカニズムで言えば、爆弾を体中に巻き付けて自爆するテロリストと本質的に何も変わらないと思います。

 

さて、私は「適応できなかった人間」です。

適応済みの人間や、この社会の仕組みを設計している人間に、少なからぬルサンチマンを抱いています。

前回の記事にも書きましたが、幸せそうな人や美しい人、「リア充」を見ると、苦しくなります。

 

私は自立することができないぐらい弱い人間なので、「適応できない人」を責める気持ちはありません。

弱い人間がある程度いることを前提にして社会を作らないと、いろいろおかしなことになるに違いないと思っています。

 

「自立」には、資源が必要です。

教育が必要です。

互いに補い合う他者の存在も必要です。

孤独のまま、一人きりでは自立はできないはずです。

 

自立って、すごく常識的で、当たり前のように思えるけれども、私のような弱い人間からすると、そもそも本当の意味での「自立」なんて、誰にでもできることなのか、疑わしいと思います。とりわけ日本人にとってはなおさら。

 

今回のように何の躊躇もなく犯人を糾弾するコメントを投稿する人がおびただしい数存在するという点に、私は絶望するのです。

「多数派」の「常識人」の、この想像力のなさ。

どれだけ弱い人間がいるか、どれだけ自分が恵まれているか、どれだけこの社会がいびつか、あるいは、どれだけ「人間として正しい生き方」を知ることが困難か。

別の仕方でもありえた社会、別の仕方でもありえた自他の人生、「いま、ここ」の偶然と必然。

 

こういうことを少しでも自分の頭で考えたら、「適応できない人間」を責めることなどできないと思うのですが(それができるから適応できているのかもしれませんが)、とにかく、常識的な人も非常識な人と同様に恐ろしいものなのです。