私の人生は悩みとともにあります。幼少のころから中年となった今日に至るまで、全く悩んでいなかった日などほとんどありません。

特に15歳を過ぎてからは、本当に1日も欠かさずに悩んできました。皆勤賞です。

悩みの内容もその時に応じていろいろなのですが、間もなく40歳になる現在の私の悩みで最も大きいものをここで告白します。

 

それは、老若男女問わず(特に若い女性ですが)美しい人や魅力的な人を見ると苦しくなる、ということです。

 

この世界で、人生を充実させて、明日への希望に邁進している人。

何かを成し遂げようと、勉強したり、仕事したり、体を鍛えたり、元気に頑張っている人。

仲間に囲まれて、あるいは恋人と手をつないで、青春のときめきを味わっている人。

…要するに、「リア充」ってやつですかね。

この言葉嫌いですけどね。

 

あとは、美しく咲き誇った若い女性たち。

先日も都内某所を歩いていたら、薄着になった奇麗な女性がたくさん歩いていて、クラクラしました。

女性の存在って、本当に強いと思います。

男は競争に勝たないと魅力がないですが、女性は身体が存在するだけで魅力がある、つまり存在価値があるのです。

それは子供のときからそうです。

この美しさは本当に問答無用で、対抗しようがありません。

 

で、何はともあれ、そういう人を眺めると、自分は彼らのような「キラキラと輝く世界」からは疎外された存在、彼らにとっては風景のような存在なのだ、ということを感じて、苦しくなるのです。

ここでも、とりわけ女性に対してそう思います。

自分も男性ですから、異性のエロスに触れたいという欲望があります。

しかし、そこに触れられる可能性はもう断たれているという自覚もあります。

(そういう自覚が足りないクズがセクハラしたりするんじゃないですかね。ゴミですね。)

 

いい歳のおっさんが、女の子を眺めて内心ではウジウジクヨクヨといじけているなんて、マジで気持ち悪でしょ。

何が「異性のエロス」だ、スケベなだけじゃねえか。

 

でもね、「スケベ」って、大事なんです。

「品のいいスケベ」と「品のないスケベ」があるんです。

「品のないスケベ」はゴミです。有害です。

でも、「品のいいスケベ」は、それこそが人間の本質と言っても過言でないぐらい、決定的な物なのです。

「リビドー」に「理性」をちょっと掛け合わせたものが大事なんです。

 

『愛の中には常に幾分かの狂気がある。しかし狂気の中には常にまた、幾分かの理性がある。』

(ニーチェ)

 

さすが、哲学者、それもニーチェ大先生ともなると、迫力が違いますね。

ニーチェも、実は強烈な失恋を経験しています。

美しさに焦がれ、エロスの魅力に焼かれても、それには触れられないという残酷さに身をよじったのでしょう。

そういえば、私の大好きなアル・パチーノが「悪魔」を演じた『ディアボロス』という映画で、こんなセリフがありました。

 

「見ろ、だが触るな”、“触れ、だが食うな”、“食え、だが飲み込むな”!

人間が右往左往するのを見て神は腹を抱えて笑っている。

実に嫌な奴だ!サディストだ!高見の見物のいい気な奴を崇拝できるか!?」

 

うう…。

分かる。

分かりすぎる。

 

性欲を埋め込み、ほとんどすべてのものを自分の遺伝子を残すうえで損か得かで判断してしまうようにプログラムしておきながら、目の前にあるエロスには「触るな、食うな、飲み込むな」と理不尽な命令を下し、違反した者には裁きを与える神。

うん、実に嫌な奴だ。サディストだ。

 

苦しいんです。

虚しく、消えてしまいたくなります。

風景としてしか存在できない自分の惨めさを受け入れられるようになる日は来るのでしょうか。

 

 

まとまりがないですが、仕事に行く時間なので今回はここまでです。