私は車の運転が苦手です。
操作はできます。
でも、初めて通る道が怖くて仕方ありません。
複雑に入り組んだ交差点の通過や、流れの速い大通りでの車線変更、一方通行その他のルールを視覚情報から瞬時に読み取ること…、数え上げたらきりがありませんが、こんなの、初見で100%間違いなくやるなんて無理です。
しかも、仮に自分ができていても、できていない他の車がいたり、交通ルールなんてお構いなしの歩行者や自転車がいたり、子供もいればお年寄りもいて、工事もしていれば緊急車両も通り、頭蓋骨には脳みその代わりに馬のクソが詰まっていると思われる低能野郎の割り込み・すり抜け・煽り等もあり、これで事故が起こらないはずがないのです。
最近はいろいろと悲惨な交通事故のニュースがありますが、これこそが、現代社会の象徴だと思います。
つまり、HSP的にはめまいがするような「一歩間違えば一巻の終わり」というレベルのリスクがあるにもかかわらず、それをできるだけ考えないようにして、「昨日も大丈夫だったから今日も平気だろう」という何の根拠にもならないようなことを当てにして、降りることのできない高速の流れに自ら合流していくのです。
たまに不幸な事故で悲劇に見舞われる人が出たとして、そこで一瞬「自分も気を付けなければ」などど「反省」するのですが、それでも明日自分が事故に遭うなどとは本気では思っていないのです(そうでなければ運転などできるわけありません)。まして自分以外の誰かを乗せて運転することもあるわけで、想定されるリスクとそれを確実に回避できるかどうかには100%の保証はないはずなのですが、「生活(の利便性)」のためにはやむを得ないということにして、そこで考えることをやめて「適応」していくわけです。それが、「普通の人」なのです。
私は免許を取ってから、数年間ペーパードライバーでした。
教習所で覚えさせられたことも、「この道路ではこっちが優先、って言ったって、それを向こうが守るとは限らないじゃん」とか、「そもそもみんな赤信号で絶対に止まって、地面に轢かれたこの白線の幅に収まるコースでしか走行しない、っていう保証がどこにあるの?(今までそういう人にほとんど出会ったことがないというだけで、そんな人工的なルールを全員が守っているという前提自体に無理がある)」とか考えてしまって、「ドライブが趣味とか、遠出が好きとか、そんな怖いこと、よくできるな!」と思っていました。
で、おそらくインターネットにしろ、AIにしろ、原発にしろ、環境問題にしろ、あるいは資本主義経済それ自体にしろ、超巨大で超高速に進むこの激流に、まともに考えていたら気が狂いそうになるはずなのに、ほとんどの人はそんなことは考えないことにして、みんながそうしているから、という理由だけで自分もその流れに合流していくのです。その「速さ」が怖くなってしまう人は、精神を病んだり、引きこもったまま出てこられなくなったりしてしまうのでしょう。まったく、絶望的に乱暴な世界です。その「乱暴さ」こそが、今日の文明の本質ではないかとすら思えます。
私は、自分が幸福になるためには穏やかに生きられることが必要不可欠であることを確信しているのですが、それはこの世では成就することのない欲求のようです。わたしは甘えているのでしょうか。(確かに前述の通り、自立には程遠い生きざまです。弱肉強食と適者生存の厳しさにむき出しでさらされている野生動物の生と比較することで私の主張を一蹴することは容易です。野生は「乱暴」を通り越して「グロテスク」で「残酷」です。最近Youtubeで、野生動物の捕食動画をよく見ています。)
しかしながら、それでもやっぱり悲惨な交通事故は無くならないし、リスクを回避できるかどうかはとどのつまり偶然でしかなく、その種の「乱暴さ」を無視することによってしか成立しないような社会に、朝から晩まで、首までどっぷりつかっているのが現代人である、ということは事実だろうと思います。