私はそろそろ40歳になろうかというおっさんであるにもかかわらず、全く自立できておらず(正社員として働いており、一応自分で働いて稼いだお金で生活していますが、実家住まいなので生活費のかなりの部分を浮かせています。洗濯や炊事もいまだに母にやってもらっています)、とにかくゲームのルールを理解できない人間ですので、保険とか、将来の備えとか、そういう話にも疎いです。

 

ですので、世間一般で、働いて、子育てしていたりする人から見たら、本当にしょうもない奴に見えるかもしれません。

 

しかし一方で、私は自分の感受性に自信を持っている面もあります。

40年ぐらい生きて分かってきたことなのですが、世の中で立派に自立しているかのように見える大人のほとんどが、「当たり前を疑う」ということをせずに、考えることを放棄して生きています。私はいろいろと「適応できなかった」と書きましたが、実は、適応できない私に問題があったのではなく、私のような誠実で正直で感受性の豊かな人間が、本能的に適応することを拒否してしまうほどに、この世界は腐っている、ということです。

 

なぜそのように傲慢なことが言えるのか?

 

少なくとも、私は今まで生きてきて、私と同じか、それ以上に誠実に正直に論理的にに思考し、「正しさ」にこだわって(執着して)生きている人を、ほとんど見たことがないのです。みんな、適当なところで考えることをやめて、「現実を見ろ」とか、「大人になれ」とか、「ポジティブに考えよう」とか、そういう何の根拠もないいい加減な言葉で自分をごまかして、この腐った社会を構成する多数派の軍門に降りていった人たちばかりなのです。

 

私はそうではありません。

 

友人がいないと書きました。

おそらく、私は自分と同じような希少な存在の人としか友人になれません。それもかなり淡い付き合いしかできません。

それでいいのです。

 

私は今、孤独であることに対して、一抹のプライドを持っています。

私が孤独であることは、15歳のときから、一度も自分をごまかさなかった証拠ですから。

 

孤独な人、自分の弱さに傷ついている人、そういう人に言いたい。

あなたは決して間違っていません。「この世界の浅薄で心が欠如したものごと」(スーザン・ソンタグ)に対して、より人間らしく反応しているからこそ、生きづらいのです。

あなたはあなたの正しさを原因として苦しんでいます。

 

いつかどこかで出会ったら、私の友人になってください。