三津五郎さん、講演会「新しい歌舞伎座と歌舞伎の未来」
10代目 板東三津五郎丈のトークをたっぷり聴きました。
1956年-2015年、
18代中村勘三郎丈を追うように旅立たれて・・・
お二人の舞台、目にくっきりとあざやかに刻まれて。
◆坂東三津五郎さん講演会
2013年3月8日午後、新宿の朝日カルチャーセンターで、
参加人数が多かったので会場は住友ホール。
今回はメモをとったので(撮影録音は禁止)、
自分の走るミミズ書きが解読できるうちに、文字にします。
家元はもちろん、「です、ます」の丁寧な口調で話していらっしゃいました。
以下はそれを聞きながらのメモなので、
ぶっきらぼうな箇条書き的な文体になってます。
ブログには初めてアップです。
○ 前の歌舞伎座の思い出
・舞台の上から見る劇場内の景色が一番良いのが、歌舞伎座だった。
・大きな役をやるとき、
自分以外の力が自分を動かしてくれたように感じたことが何度かある。
それはどれも、歌舞伎座でだった。ほかの劇場ではない。
そしてそれは、自分が役に真摯に取り組んでいるとき。
もしかしたら、劇場に宿った魂が上から舞台を見下ろして、
「あの子に力を貸してやりましょうかね」
「そうですね、がんばってますしね」とか、
「いやいや、あの子はまだまだダメですよ」などと
会話しているんじゃないかと感じる(「 」のやりとりは一人芝居の感じで)。
・役者のほかにも色々な人が歌舞伎座にはいた。
子供のころ、中村屋と一緒になって
機関室(歌舞伎座内の電気、ガス、水道、ボイラーなどを管理する場所)から
ドライアイスを持ち出して、
歌右衛門のおじさまが入る直前に風呂場にいれて
煙でもうもうにして叱られたことがある。
揚幕をいつも開けていた「こーさん」は、
芝居に詳しくて役者の好みに応じて開け方を変えてくれた。
先輩役者が自分のことをほめていたと伝えてくれたりもした。
今では楽屋にパンや飲み物の自動販売機があるが、
それがない当時は小さな台にそうしたものを並べて売ってくれるおばさんがいた。
今では役者の写真をロビーで売っているが、
それがないころは2階で役者の似顔絵を色紙に描いて売っているおじさんもいた。
そして楽屋口には有名な口番の田代さんがいた。
・役者以外でもみんな「歌舞伎座は日本一」と誇りに思って働いていた。
そういう人たちの魂、役者たちの魂が諸々、
59年分詰まっていた劇場だった。
○ あってはならないことが次々と
・その歌舞伎座がなくなり、わずか3年間で新開場となる。
その間に歌舞伎界では本当によくない色々なことがおきてしまった。
前の歌舞伎座閉場のときは
京屋(雀右衛門)さん、成駒屋(芝翫)さん、天王寺屋(富十郎)さんたちが、
「自分たちは新しい歌舞伎座には立てないかもしれないねえ」とおっしゃっていて、
僕たちは「そんなことはありませんよ。立ってください」と言っていた。
けれどもお三方ともお亡くなりになってしまった。
○ そしてまさかまさか、中村屋が……
(このあと、中村屋との思い出を長く詳しく語られる。そのほんのさわりだけ)
・いまだに信じられない。まだいるだろうと思っている。
・小2で一緒に白波五人男をやった。
本当なら人気からいって中村屋が弁天のはずが、
彼は南郷力丸をやりたがったので僕が弁天に。
そして日本駄右衛門がなんと、芝雀さん。いちばん背が高かったので。
本人は一生の汚点だと言っているけれども。
なぜ中村屋が弁天ではなく南郷力丸をやりがたったからというと、
ほかはみんな前髪つきだが
南郷だけは青黛(せいたい)を塗る丸羽二重の大人の髪だから。
そういう役は本来は大人にならないとできないので、
早くやってみたかったのだと思う。子供の頃からそういうことまで考えていた。
・城めぐりの旅を一緒にした話。
・「関西歌舞伎を育てる会」に中村屋の交代で中日から出たことがある。
それがきっかけで関西歌舞伎とも縁ができて仕事の幅が広がった。
つねに中村屋が先を走っていて、
そのあとを必死で着いていったおかげで今の自分がある。
・そして一緒に、納涼歌舞伎を始めた。
自分たちが歌舞伎座の舞台を開けるのが夢だった。
・中村屋は手術前に電話してきて、
新しい歌舞伎座で8月に納涼をやろうとその演目の相談をしてきた。
・(納涼歌舞伎の演目を相談した話をしてから、家元はしばし沈黙。やがて)
「……まあ、不思議な感じですよね」。
・中村屋は天才肌の役者、
独特の間の良さや、客を一瞬でつかむ天賦の才の人だったが、
同時に誰よりも稽古する人だった。
踊りも芝居も。また鳴りものも。
三味線でも鼓でもあっという間にうまくなるが、
それはそれだけ稽古していたから。
・彼と50年間一緒にやってきた者として、
「平成中村座の人気者」というような文脈だけで彼を語ってはいけないと思う。
彼の芸の真髄を伝えていきたい。
・三社祭はもう一度くらい一緒にできるかね、と言っていた。
もう少しすれば(先代勘三郎と七代目三津五郎のやった)
「峠の万歳」のあの枯れた感じが出せるようになるかな、
まだ早いが楽しみだと言っていた。そのままになってしまった。
「夕顔棚」のおじいさんとおばあさんもそう。
・自分を深く理解してくれる共演者を失ってしまった。
・後輩を指導するにあたっても、2人の持ち味が違うので、
気づくこと、注意することが違う。
2人が違うことを言っていても、
互いへの深い信頼があるから「彼の言うことはちゃんと聞きなさい」と指導できる。
2人は全く違う方向から臨んで、
歌舞伎をいい方向に導いていければと思っていた。
それがこれからの歌舞伎にとって心配なこと。
○ 成田屋さんのこと
・世の中の普通の人とちゃんと話ができる人だった。
役者というのは基本的にわがままで、自分が可愛い。
けれども成田屋(團十郎)さんは自分のことよりも歌舞伎のこと、
ひいては日本の文化を大事にしていた。
・歌舞伎のこれから、歌舞伎が世の中とどうつきあっていくか、
どう発展していくか。そのために大事な方を失った。
・歌舞伎の舞台には両脇に「大臣柱」という大事な柱がある。
これが歌舞伎の小屋のシンボルだが、ほかの形態の芝居では邪魔になる。
では新しい歌舞伎座では取り外し可能にしたらどうだという提案があって、
会議で役者たちはそれで合意しそうになったのだが、
成田屋さんが「この劇場は1年12カ月を通して、
歌舞伎をやるためのものではないのですか。
なぜほかのものをやるという前提で話が進むのか理由を教えてください」
(口調を真似てる)とビシっと言った。
そういうことが言えるのが成田屋だった(結果的に「大臣柱」はもとのままに)。
・成田屋はなぜか舞台で自分の役名を台詞で言ってしまう癖があった(笑)。
海老蔵時代に自分が桜丸なのに「桜丸」と呼んだり、
「上意討ち」では自分が篤之進なのに、
「伊三郎」と呼びかけなきゃならないところを
ずっと「篤之進、篤之進」と呼びながら花道を引っ込んだり(笑)。
・舞台の開幕前に役者は「声だし」という発声練習をそれぞれにやるものだが、
なぜか成田屋はそれが
「ゆう~や~け、こやけぇ~の~♪」だった(ものまねに場内爆笑)。
○ 新歌舞伎座、こけら落とし公演について
・6月の「助六」で自分は通人。これは閉場の時は中村屋がやった。
演目が発表された時も、彼がやった通人を自分が、
開場で初役でやるのかという思いがあった。
けれども、成田屋さんの股をくぐるのが楽しみだった。
それが成田屋までいなくなり、息子さんがやることになった。
通人は笑わす役だが、複雑な気持ちになるだろうと思う。
・開場記念の演目に「喜撰」が選ばれたのは
私どもの家にとっては嬉しいこと。
・2月26日は菊之助くんの結婚した日で、
その前には歌舞伎座の後ろのタワー最上階で竣工式があった。
翌日が成田屋の本葬。
高層エレベーターで上がったり下がったりするみたいに、
感情の起伏が激しい日々を過ごした。
・その前には新しい歌舞伎座で音響テストがあった
(家元は1月とおっしゃったが、実際には2月初め)。
あの時、役者たちは初めて新しい歌舞伎座に入った。きょとんとした。
玄関の感じも、舞台の寸法も花道の寸法も同じ。
客席の鳳凰丸の布の感じも同じ。
花道の横の木は前のをそのまま。
壁の感じも天井のあかりの感じも。
「皆さんはどうですか?」と客席に。
前の歌舞伎座の復元がよかったか、
それとも前の感じを残しつつ新しい感じがよかったか。
(客席はなんとなく、復元がいいというような空気に)。
「そうですか、それなら満足されると思います」。
・(家元は)どちらかというと、新しい歌舞伎座を守らなくてはと思っていた。
平成25年の新開場というよりは、昭和26年の開場に戻された感じがする。
・舞台からの眺めはほぼ同じ。
・こけら落とし公演について、
三部制で時間が短いのに「ちょっと高いよね」という声も聞かれる。
4~6月は建物人気でお客様が来るだろう。スカイツリーのようなもので。
そのあとはどうか。我々が腰を据えてかからなくてはならない。
○ 歌舞伎の未来
・心配していること。世の中がイベント化しているのではないか。
興行も、イベント的なところはマスコミも客もついて興行としては安定するが、
通常公演は苦戦している。これからの歌舞伎にとってこれが課題。
・今までは、派手な冒険や挑戦をしても、一方で真ん中で揺るぎない柱があった。
しかしこのままでは冒険・挑戦の部分ばかりになって、
真ん中の柱がなくなるんじゃないかと心配している。
・役者の芸を観ることが、本来の歌舞伎。
派手な仕掛けは付録的なものだったが、
それが逆転してしまわないか心配している。
・歌舞伎を楽しんでいただくのも大切だが、
同時に厳しい目で見て叱咤していただきたい。
歌舞伎を育てていただきたい。
・これまでも何度も「歌舞伎の危機」と言われながら乗り越えてきた。
今の歌舞伎にとって一番ピンチだと思うのは、
明治生まれの人がもういないということ。
明治生まれの人たちは江戸を色濃く残していた。
その明治の人たちと関わったのは、私たちの世代でもう最後。
江戸の風情や風俗について、
演じる側にも分からないことがこれからはどんどん出てくるだろう。
・歌舞伎は滅びはしないだろうが、
見方は変わるだろう。それをどう乗り切るか。
・歌舞伎は同じ演目ばかりやるというご批判もある。
それは確かにそうだ。
その一方で、江戸時代にできた演目でいくらなんでも
今の時代には面白くないよというものもたくさんある。
復活狂言をやろうとしても「やっぱり長年でてないわけだよね」
と納得してしまうことが多い。
名作と言われるものは実はそうたくさんあるわけではない。
・江戸の風情や情感というのが、なかなか伝わりにくくなっている。
「なんともいえない風情だねえ」というのが、なかなか理解されない。
「踊りの見方がわからない」ともよく言われるが、
踊る人間は理解してもらおうと思っていない。
ただ、良い時間をすごしたねえと思っていただければそれで十分。
たとえば「牡丹の花のようだった」と言っていただければ充分。
踊りは、理屈で理解するものではない。
・たとえば勧進帳で必死になって
弁慶が義経を打擲する芝居をしているとき、
目の前のお客さんが寝ていると「寝ないでよ!」と思うが、
踊りの時に目の前で寝られていてもあまり気にならない。
ああ、気持ちいいんだろうなと思う。それくらい違う。
踊りというのは、最高の音楽と踊りを同時に楽しむためのもの。
芝居で疲れた頭を休めるためのもの。
・自分は、芸のスタンダードとなるものをきちんとやって感動してもらいたい。
スタンダードのしっかりしたものと、
派手で話題性のあるものとが両輪でしっかり回れば、
歌舞伎は安泰だと思う。
・肉体の芸術なので、肉体は無尽蔵ではない。
この肉体が滅んだら、自分の芸は全部なくなってしまう。
ビデオは記録でしかない。
先代松緑は晩年、今なら完璧な弁慶(の内面)を演じる自信があるのに
身体が動かないんだよとおっしゃっていた。
・自分も25年ぶりに梅王丸をやったとき、昔の人は馬鹿じゃないかと思った。
なんでこんなに苦しい衣裳、
馬鹿みたいに太い帯を何重にも巻かなきゃならないんだと。
体力的に本当に大変だが、
25年前にやったことを身体が覚えているだけでなく、
その後の25年間に色々やってきたことや
コツのようなものが身体に染み込んでいて、
25年前よりも息が切れなくなっていた。
今は肉体の衰えを経験が上回っている年齢だが、いつかそれが逆転する。
役者のいい時期は長いようで短い。
思うように身体が動かせるのは、あと10年か。
・自分の中には教えてくれた色々な人の知恵や思いがつまっている。
自分に教えてくれた人たちもそうだったのではないか。
ちゃんと伝えてくれよと先輩たちからバトンを預かっているのだと思うし、
さらに次の世代に伝えてくれそうな人に託さなくてはならない。
後輩を指導・注意するというのは、その子を伸ばしたいからとか、
先輩として威張りたいからではなく、
自分が先輩たちから預かったものを次に伝えたいから。
・歌舞伎の世界には不文律があり、
後輩が役を教わりにきたら断らないし、金品の礼は受けない。
ただ教えてもちゃんとできない人と、
ものすごくしっかりやってくれる人がいたら、
よりよくできる人に多くを伝える。
自分の子供かどうかは関係ない。
ちゃんと受け継いでくれる人に伝えるのでないと、労力の無駄だ。
・芸というのは苦しいばかり。
けれども少しでも「良くなったよ」と言ってもらえれば、続けられる。
・新しい歌舞伎座を、建物だけでなく、
その中の役者の芸も愛してください。
ほかにもたくさんたくさん、
ときに演じ、聞かせて、見せてくださいました。
歌舞伎役者のスケジュールが過酷なのではないかという質問に、
「いまのスケジュールは50年前から続いているが
昔はもっとまとまって休みがとれた、
ほかの芝居は一カ月稽古する中で歌舞伎が現状のままでは
役者の健康維持だけでなく演劇の質向上という意味でも厳しい」
——という認識を示していらっしゃいました。