萩原朔太郎、写真にエネルギーをそそいでいました。
写真の撮影さらに当時先端の「立体写真」も
たくさん残しています。
これらの撮影写真は前橋文学館の所蔵。
そのカメラマン朔太郎を、朔太郎の写真を
孫の映像作家でもある萩原朔美さんが
読み解く講座がかつて
前橋文学館で催されました。
2011年(9年前⁉)
いまでも印象深く記憶されています。
「カメラマン萩原朔太郎は何を見たか」
萩原朔美が語る、祖父・朔太郎の撮影写真
萩原朔太郎記念 前橋文学館のアートステージの催し、
今回が百回目となる。
映像作家でもある孫の朔美氏による
朔太郎の写真を
読み解き。
朔美氏は近年ますます朔太郎に似てきた、よう。
朔太郎はマンドリンでは楽団を組織し、
カメラも本格的にやり、立体写真も残されている。
ガラス甲板なので、劣化している部分もあるということだが、
今回数多くの写真を見ることができた。
朔太郎の写真の特色があると朔美氏はいう。
・誰もいない
・坂道
・画面の左側に<もの>が置かれている
人物はいても後ろ向きであったり、
正面をむいていても、そこに焦点があたっていない。
撮りたいのは水の動きであったり、
取り壊される家であったり、
坂道が多いが道だけがそこに投げ出されている。
ピクトリアリズムで、画面をぼかして焼いたり、
あきらかに影を額縁として演出をしている、と。
左側にものを置く。
大きな樹であったり、電柱であったり
1枚右に人物がいる場合でも、
この写真を本に入れるときは反転させている。
これについての朔美氏は
たとえば本にする場合に
文章を右に置くため、ではないかと指摘。
朔太郎の詩とも底通する心象風景、
寂しい、
メランコリアの気質を感じる、と。
「過去はいつでも新しい、
未来派すでに懐かしい」
ある学者の「近代詩人は『坂道の住人である』、
すでに永遠から隔てられている。下降意識のなかにある」
あるいは「すべての写真は遺影である」
写真は演劇にちかい。
<死>とむすびつけられている。
などなど示唆にとむ充実した講演。
会場には詩人の鈴木志郎康氏もみえて。
影を額縁のように使った写真
(前橋公園のトンネル)