萩原朔太郎、
春、
こう言葉がならび、
かすかな違和感、
あるいは形容矛盾(?)
のよう気がするのは、なぜでしょう。
朔太郎の「春」は欠伸をし、
「蛤」は<腐って、憔悴(やつ)れ>ています。
二篇とも『月に吠える』。
陽春
萩原朔太郎
ああ、春は遠くからけぶつて来る、
ぽっくりふくらんだ柳の芽のしたに、
やさしいくちびるをさしよせ、
おとめのくちづけを吸ひこみたさに、
春は遠くからごむ輪のくるまにのつて来る。
ぼんやりした景色のなかで、
白いくるまやさんの足はいそげども
ゆくゆく車輪がさかさにまわり、
しだに梶棒が地面をはなれ出し、
おまけにお客さまの腰がへんにふらふらとして、
これではとてもあぶなそうなと、
とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。
くさった蛤
半身は砂のなかにうもれゐて、
それで居てべろべろ舌を出して居る。
この軟體動物のあたまの上には、
砂利や潮みづが、ざら、ざら、ざら、ざら流れてゐる、
ながれてゐる、
ああ夢のようにしづかにもながれてゐる。
ながれてゆく砂と砂との隙間から、
蛤はまた舌べろをちらちら赤くもえいづる、
この蛤は非常に憔悴(やつ)れてゐるのである。
みればぐにやぐにやした内臓がくさりかかつて
居るらしい、
それゆゑ哀しげな晩かたになると、
青ざめた海岸に座つていて、
ちら、ちら、ちら、ちらとくさつた息をするのですよ。
萩原朔太郎『月に吠える』