◆金子兜太の俳句鑑賞
紅梅の芯の銀泥の荒るるや 山本 掌
山本掌は紅梅の向うにあるものに絶えず関心がある。
紅梅はこの世のこと、向うにあるものとはあの世のこと
といった此岸・彼岸というものではない。
そういう思想ではなく、紅梅という自然現象にこだわりながら、
その向うにある自然の気配、
あるいは人間の影を見とどけようとしているのだ。
現実の向うにある、いまひとつの現実をみようとしている、
といってもよい。
「紅梅が美しい」といえばそれで済むものを、
その奥に渦巻くもろもろをみとどけようとする、
批評し、時には否定さえする。
そういう視角をいつも用意しているわけだ。
目の前の現実はわりに簡単に書きとれる。
人間の世界はむずしいかもしれないが、
自然はずっと整備され、簡明な美を伝えてくれる。
が、自然にせよ人間の世界にせよ、
その奥の世界は簡明さも整合性もない。
あえて山本掌はそれを期待しない。
むしろ混沌を見とどけていこうとするタイプの作者である。
現象を大事にしながらも、
その現象の奥の現実に関心のある場合、
とかくシュールレアリスム、超現実の傾向をもちがちであるが、
山本はあくまでも現実に執している。
非常に奇妙な現実執着者、奇妙に意地悪い洞察者というか、
どこかひねくれたと思えるほどにその美意識が通常とはちがっている。
そこがこの作者の特徴である。
<紅梅の芯の銀泥>まで見とどけてゆくのは
まだ目前の現象に執していると言えるが、
<荒るる>とまでいうところが山本掌らしいのだ。
こんなにまで執拗に奥の世界を見ようとするひとは
ふつう俳句に手を染めない。
もっと多量に書ける世界を求めるものだ。
そのこと、成功不成功より、なぜか俳句で、
しかも女性で(女性の鋭い感性でないと
書けない世界ということも言えるが)
こういう力わざをあえてやっている面白さがある。