
産経新聞 5月27日より
オペラ歌手、岡村喬生(たかお)氏(80)の日本人としての誇りを追求した
ドキュメンタリー映画「プッチーニに挑む~岡村喬生のオペラ人生」が
東京・築地の東劇で公開されている。
文化映像を得意とする飯塚俊男監督(64)が5年がかりで取り組んだ。
岡村氏とは飯塚監督が平成18年に制作を手がけた
「サッちゃん 作曲家大中恩(おおなか・めぐみ)の世界」を
きっかけに知り合った。
岡村氏の「めげずにやり続ける姿勢」に感銘を受けたという。
その姿勢は、今回の映画に登場するイタリア公演でも一貫していた。
焦点を当てたのは、アリア「ある晴れた日に」で知られる作曲家、
ジャコモ・プッチーニ(1858~1924年)の傑作オペラ「蝶々夫人」。
1890年代の長崎を舞台に、米海軍士官ピンカートンと
没落士族出身の15歳の芸者、蝶々との悲恋物語だ。
岡村氏は1960年代に欧州でオペラ歌手のキャリアを始めたが、
何度も出演した「蝶々夫人」で「南無妙法蓮華経」と下から書いた鳥居を
掲げるちょんまげ頭の僧侶役を演じさせられたという屈辱の経験があった。
こうした日本への誤認をただそうと、岡村氏は昨夏、オーディションで
選んだキャストやスタッフを連れ、イタリアでの
第57回プッチーニフェスティバルで改訂台本による公演に乗り込んだ。
そこで、思いがけない事態が起きる。
プッチーニの孫娘の反対に遭い、台本の改訂を拒否されたのだ。
さらに芸者役は現地劇場との労働協約により、歌えないことが判明。
映画では岡村氏がキャストから問いつめられる
緊張の場面も登場する。
「岡村さんは、日本とイタリアをつなぐ糸のような存在である
プッチーニ・フェスティバル財団の総監督を追いつめることで、
公演が破綻してしまうのを心配した」と飯塚監督。
「『妥協点を探りながら上演を成功させたい』と言っていましたね」と、
岡村氏の粘り強い姿勢を評価する。
ナレーションは倍賞千恵子さんが務める。(市川雄二)

●飯塚俊男監督 自作を語る
5月15日 アムール+パンドラ
かつて小川プロに所属して社会的弱者に寄り添うように映画を作り、
独立後は環境や歴史、民俗といった文化映像を主に監督してきた飯塚が、
なんでオペラ歌手をテーマに撮ったのか?
こんな疑問を持つ人がいるかもしれない。
しかも初公開は松竹の直営する銀座東劇とは、
ずいぶん宗旨替えしたものだ、と。
確かに小川紳介監督と映画を作っていた時には考えられない展開である。
ホールを借りて自主上映が常識だったから。
しかし、60年代終り頃の映画館の状況を振り返ってみれば、
全国の映画館にインディーズが作った映画など
上映してくれる隙間などなかった。
映画館はメジャーの系列にブロックブッキングされていて、
自主作品を上映しようと思えば、大学の講堂や公共のホールを
借りるしかなかったのだ。
今映画は誰でも作れる時代だが、この時代のインディーズたちは、
そうしたメジャーの映画作りを経験した人々の中から生まれた。
フィルムというメディアの特性からプロの技術が必要だったのだ。
小川紳介や土本典昭は岩波出身。
岩波をメジャーというのは言い過ぎだという方もいるだろうが、
大資本のお金をバックに映画を作っていたのだから、
限りなくメジャーに近い存在と言っていい。
ところが、60年代末期に学生で小川たちの映画作りに参加した私たちは、
映画の出発そのものがインディーズで、
メジャー系の映画制作は一度も経験したことがない。
撮影中に小川から聞く岩波の現場の話や、
撮影所の話を通して想像するしかなかった。
小川は、映画を作ることはメジャー(資本)との闘いである、
とよく言っていた。だからホール上映こそインディーズにふさわしく、
そうして映画作りの自由を勝ち取るのだ、と。
今もその声が離れないものだから、
東劇の上映が決まった時には、「裏切ったな」と
いう声を感じなくもなかった。
しかし、東劇の上映を成功させようと必死には働きかけながら、
松竹のおひざ元に出入りしてみると何故か心愉しいところがある。
そこで分かったことがある。
メジャーから始まってインディーズの映画作りを開始した小川たちには、
メジャーは闘いの対象だったかもしれないが、
インディーズ第2世代の私たちはメジャーを体験しなかったのだから、
闘いの対象になりえなかったのである。
私たちにメジャーは内在してなかった。
だから、
映画界に入って初めてメジャー系の映画館で上映できるというのは、
インディーズの枠に縛られていた自らを解き放つことであり、
映画作りの自由を拡大することなのだ。
だから、心愉しいのは当たり前。
そう考えることにした。
メジャーで上映することで何が変わった?
と問われれば、映画の仕上げの考え方である。
自主上映だと、自分の世界をどう構築するか
ということに集中してしまうが、
メジャーで見せるとなると、
お客さんを強く意識して仕上げることになった。
編集には商業映画の大ベテラン鍋島惇に入ってもらったが、
それは大成功だった。
鍋島の編集の基準は、観客の心地よさだという。
自主制作自主上映では、ほとんど考えてこなかった視点である。
むしろ観客に媚を売って商業主義に落ちてはならない、
それが、新しい映画の作家性だと考えていたように思う。
以前、わたしが製作し新人の渡辺智史を監督に起用した映画
「湯の里ひじおり―学校のある最後の1年」が仕上がった時、
編集した鍋島から「飯塚さん、これで商品になりました」と
言われたことがあった。
小川だったら烈火のように怒る言葉だったが、
その時わたしは妙なこそばゆさで受け止めた。
いま鍋島が言ったことの意味が良く分かる、
「映画として作ったよ」という強い意志を持った言葉であることが。
自作がどんな映画か、まったく語ってこなかったが、
音も画も、運びもとても楽しめるオペラドキュメンタリーが仕上がったと
自負している。
5月19日から東劇上映が始まる。
是非劇場に足を運んでいただきたい。