記念講演は池内輝雄氏と辻井喬氏。
◆「中村真一郎 青春日記」について 池内輝雄
中村真一郎16歳から19歳1934年~37年、
全8冊の手帳のうちの5冊、
これを数人、4年がかりで、解読(?)。
びっしりと書き込まれ、原稿ではないため困難を極めた由。
ときおりバサッと破棄されている箇所も。
父の死から始まり、
年譜をつくるうえでの資料になるのはもとより、
どのような思考・思索を経たか、
膨大な読書記録、映画・演劇・音楽・美術などの鑑賞と批評、
創作ノート・文学論、友人との交友などなど。
ひとり中村真一郎個人のみならず、
戦前の学生の生き方をもうかがえる、とも。
次の講演の間に中村真一郎のDVD「私の文学の読み方」の
予定だったのだが、理事会がおして、来年に上映のこととなり、
辻井喬氏の講演になる。
◆「消えた文人の面影」 辻井 喬
辻井氏、滔々とでも、訥々とでもなく、穏やかな口調。
よく切れるメスであって、
それが前面に出るのでるのではないものの。
まなざしもまた。
中村真一郎の死去で「文人のひとりがなくなった」と。
「文人」とは「詩文・書・画を修める人・優れた人、
その精神を追い求める。風韻。
中国から日本へは江戸中期以降に伝わる。
個人的には中村真一郎の東大仏文での最初の講義を聞いた、
とのこと。
この講義はそのころの辻井氏にとっては「解放区だった」。
これを中村氏は
「(辻井は)僕より<若い>って言いたいんだよ」
と言っておられたと。
中野重治が編集長をしていた「新日本文学」のこと、
奥さんの女優原泉のことなど、
生きた文学史を語られる。
中村真一郎の作品、
マティネ・ポエティックの詩、長編小説、評論、戯曲など
多大な作品があるが、評伝にむいていた、と。
「頼山陽とその時代」
「蠣崎波響(かきざきはきょう)の生涯」
「木村蒹葭堂(0けんかどう)のサロン」
3・11以降、文学者としてどう受け止めるか、
辻井氏は最近南相馬へ行かれ、そこにその時がそのままあり、
国道も海になっている。
原発は反対だが、その再稼動とか、次のエネルギーはというより、
哲学的なあやまり、なのではないか、
このようなことを中村氏ならどう思うか、と。
中村氏は戦後文学の大きな役割を果した、と結ぶ。
会はその後、懇親会へ。
「中村真一郎手帖」も7号に。
中村真一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%9C%9F%E4%B8%80%E9%83%8E
中村真一郎の会 ホームページ
http://www.suiseisha.net/nakamura/