衝撃のデビュー――。
智弁和歌山に入学直後の春の和歌山県大会。先輩たちと一緒に練習してわずか1週間程度。無我夢中だったという西川遥輝は6試合で4本塁打を放つなど、驚くほど打棒は振るった。
「(練習でも気持ちを)抜けなかったですね。ノックが死ぬほどしんどかった。そのときはショートだったんですけど、自分はひとりだけハァハァいってるのに、先輩は『今日は軽い方や』と言ってる。ついていくのに必死でした」
先輩たちに迷惑はかけられない。そのためには、必死でやるしかない。その結果が4本塁打だったのだ。
「今考えると奇跡ですよね(笑)。ただ、これぐらいやらないと智弁じゃないと思ってました。怖いもんなしで、打てる気しかしませんでしたね」
さらに、右手首を疲労骨折しながら臨んだ夏の甲子園でも、常葉菊川戦で2打席連続三塁打を放つなど、3試合で13打数6安打を記録。まさに“スーパー1年生”。間違いなく、この世代で一番最初に名前が知られたのは西川だった。
ところが秋に悪夢が襲う。3番という重圧に負け、打撃不振に陥ったうえ、再び骨折。さらに、高嶋仁監督が謹慎で不在という状況も重なった。指揮官のいない緩んだムードに加え、故障で練習ができず、自然と楽をするようになってしまう。
「もったいない冬でした。何も成長していない。こんなこと言ったらダメなんですが、ケガを治すために休んでましたけど、もう少し真剣にできたかなと。みんながロングティーをしてても(トスを)投げてるだけ。走ったりできるのに、やらなかった」
また、2年生の6月には練習試合でクロスプレイの際に左手の舟状骨(しゅうじょうこつ)を骨折。医者から「ちゃんとつかないと骨盤の骨を移植しないといけない」と言われたこともあって、「びびってもうたんです(苦笑)」。思うようにバットが振れない。大会直前ということもあり、西川は甲子園をあきらめかけたが、高嶋監督からは「出ろ」という出場指令。それでも、2回戦の札幌第一戦では、9回にライト線へ右手一本で勝ち越し適時二塁打を放つ勝負強さを見せた。
「監督に『出ろ』と言われたら出るしかないので(苦笑)。なんやかんやいっても、片手でもそれなりに打てた。やったらできるもんやなと思いました」
そして、2年の秋。最上級生になり、ようやく意識が変わった。冬場の練習では、2人組で走る100メートルダッシュで足の速い選手と組んで走り、苦手の長距離走もできるだけトップで走るようになった。食事の量も増やし、細身の身体を大きくしようとする努力もした。
「前の年と違い、プラスになった冬でした。気持ちの面でも成長できたと思います」
3年春のセンバツは2回戦で興南・島袋洋奨に3打数無安打2三振(2四球)に封じられて敗退。夏の甲子園でも1回戦で成田の中川諒の前に3打数無安打(1四球)に抑えられ、1回戦敗退に終わった。だが、下級生時にたびたび見せていた凡打の後のダラダラした走塁はなくなり、常に全力で走るようになった。意識の変化は、しっかりとプレイに表れていた。
両手両足の骨折をくり返し、1年の春だけで4本放った本塁打は、3年間を終えても14本。伸び悩んだ印象は否めない。だが、それでもドラフト2位の高い評価を得た。だからこそ、西川は気を引き締める。
「(2位は)ホンマびっくりしました。僕なんか、(実力的には)下位なんで……。プロはどれだけバットを振ったかで変わる。覚悟して、体作りから気持ち入れてやります。それと、プロでは足で生きていかないといけない。全力疾走を心がけたいと思ってます」
順風満帆のスタートから一転、苦しい3年間を過ごした西川。だが、思うような結果が残せなかったからこそ、プロの世界では逆に期待ができる。最大の敵であった慢心が生まれようがないからだ。西川の場合、性格的に「自分より上」と思う選手がいればいるほど、高いパフォーマンスを見せる。
「上がおった方がいいですね。一番上になるとダメなんです。中学でもそうでした」
プロでは年齢も一番下。実力的にも、体力的にも、下からのスタートになる。だからこそ、ガムシャラに――。本気になった“ホンモノ”の西川に会える日を、楽しみに待ちたい。
田尻賢誉●文 text by Tajiri Masataka
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