古神道バージョンと呼ぶべきか
~疎外感や孤独を感じている人たちへ~
パソコン教室を営んでいる
和田基博と申します
ネットを何となく見ていた時、今広まっている「高天原に坐し坐して…」で始まる
龍神祝詞は、本当の龍神祝詞ではないと出ていました。
どゆこと?と詳しく見てみました。
まあ、祝詞ですから誰かが自作したものが広まっているのは分かりますが、
その理由として、祝詞に出て来る、高天原に何で龍神がいるのか?、
なぜ「十種神宝」と関係あるのかという疑問を問いかけていました。
そして「尊み奉る龍王龍神は…」で始まる、前項とは関係のない山王竜頭神社に伝わる
見たことのない祝詞が出てきました。
他にも理由として神社神道祝詞にも掲載がなく、神職だけでなく多くの行者や
僧侶も奏上していることから仏教の祝詞であるという理由からのようでしたが、
確かに「六根」という言葉は、仏教の六根で眼、耳、鼻、舌、身、意で
人間が感じる6つの根源的器官と感覚の事だと30数年前お寺に通っていた頃の
当時の師匠のであった和尚から教わったのを憶えています。
また次第にも「六根清浄大祓」も勤行の際に唱えたりしていましたし、
「懺悔懺悔六根清浄」と繰り返して節をつけて山での峰入り修行の際に
発していた経験から、神仏習合の仏教からの祝詞かなとも感じていました。
しかし神仏習合は神社でも珍しくはないので、内容などは何の疑いもなく、
龍神を祀ってある福岡市の海神総本宮の志賀海神社で奏上したいと
繰り返し奏上して憶えたものでした。
神社へ行ってみるとほとんどの神社では阿・吽の狛犬がありますが、
これも元々歴史的にも神道には無かったそうで、
古代オリエントのライオン信仰がインドへ伝わり、仏教の守護獣である
「獅子」として中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったもので
神社に狛犬を配置するようになったという歴史があるようです。
祝詞も元々何処かで誰かが創作したもので、それが何処からか、または特定の神社で
代々伝わっているという事だと思います。
つまるところ、これが正しいとかいう理屈を重視するのではなく、
奏上したときに、どのように感じたかで良いと私は思うのです。
中国の龍も西洋のドラゴンも元々神道には無く、八百万の神としての水神、
時には弁財天と同一視されたり、蛇や鮭や鯉などの魚であったり、龍神として
祀られている神社もあります。
由緒や歴史を調べてみると、その土着信仰と結びついて
いろいろな神々が同一視したりとされているのも珍しくは無いようです。
大体において「王」とか「尊」とつくものはあちこちの神社を巡っていても
仏教由来の仏、神であることが多いのではないかと思います。
しかし記紀神話に明確に「オカミ神」として記載されており、水神・祈雨の神が
神道としての神のようです。
私の自宅の西方に竜王山という600mほどの山があり、その登山道に
龍王神社の祠があります。
祭神は高龗神でおかっぱ頭の子供の姿の神像が神体で祈雨の神として祀られています。
お米一粒、石ころであっても神が宿るという無意識化でも八百万の神という概念があり、
他の神をも受け入れるのが日本人の心です。
特に決まった信仰は無くても老若男女、お年寄りから子供まで神社やお寺に参拝するのは
イベントとしての意識くらいのものでも、それこそが宗教の教えが息づいており、
そこには何かへの感謝という下地があるように感じるのです。
ネットに祝詞の画像があったので、それを見ながらタイプして
これもバリエーションの一つとして覚えてみようとプリントアウトしてみました。
「天空をた走り、地空に漲り」は自然の働きを表しています。
一つだけ違和感を覚えたのは、普及している祝詞では「病災」の部分の読み方が
「病災」となっていて、「わざわい」を省いてあり、一つの言葉でいいのかなと
小理屈ではありますが、気になったのです。
あと、「一切を産み育て」が「一切を産み、一切を育て」が「一切を」で
括られていたりしますが、意味としては前項の2か所があるかないかだけで、
奏上していくうちに、その意を込めた時に言いやすい祝詞になるのではないか
と思っています。
両方「龍神祝詞」では被るので、この祝詞を、祝詞を奏上する際に、
例えば「大祓詞奏上」と述べてから奏上しているのですが、
「古神道龍神祝詞」または「龍王神祝詞」と区別しようかなと思っているのです。
プリントアウトした祝詞を神床に置いて、見る機会が増えたことで、
さあ、奏上してみようと意欲が湧き出てきます。
空で言えるようになるまで繰り返し奏上するのも楽しみになり
覚えた時のことを思い浮かべワクワク感を覚えたのです。
少しでも、何か参考になったとか
興味があるとか気が落ち着いたと
思って下さると幸いです。
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