鰻でも | 希望と光のブログ

希望と光のブログ

思いついたことを書いていきます。

鰻でも

PVアクセスランキング にほんブログ村

~疎外感や孤独を感じている人たちへ~

パソコン教室を営んでいる

和田基博と申します

 

 

 

 

小学生の頃からの幼なじみのLineグループで、久しぶりに食事でもと

 

元レーサーからコメが入ってきました。

 

 

 

 

私は一人でフリーな生活を送れていて家族の制限はなく、還暦を迎えて

 

皆それぞれに子供や孫がいて子供も大きくなり独立していて、

 

普段の活動範囲もお決まりで、たまには食事や旅行など

 

男だけの時間を謳歌したいということでグループを作っていたのです。

 

 

昨年は忘年会として、やはり同級生がやっている居酒屋で

 

会を開いのが最後ですのでもう4月も半ば過ぎていて、2人新たに加わり

 

6人となったのですが、その2人が今回初めてLineに投稿したのを見て、

 

ちぐはぐな感じなのです。

 

 

 

 

食事は何が食べたい、何処の店が良いとか決めるのに、

 

ホテルの中華レストランの厨房にいるコックの幼なじみは、

 

性格上、あまりその場を仕切ったりするのが苦手のようで、

 

何かを決めるに何でも良い、何処でも良いと自分の意見を言わなくて、

 

今回も、案の定、何でも良いとコメントしたのです。

 

 

 

 

私は、それでは誰かに責任を押し付けることになり、自分の意見を述べ給え

 

とコメントしてみました。

 

 

 

フリーズしたようにLineが止まり、1時間ほどして

 

美味しいものと言うのは、あちこちでほぼ食べてきたし、

 

味としては何の料理でもどの店でも普通だとコメントしてきました。

 

 

 

老若男女、一人ひとり味覚の違いや体力、若さ、年齢でも

 

味の違いや好みはあるのが当たり前で、料理人ならある程度の年齢層があって

 

客層を絞っていても、美味しさというものを追求しなければ

 

進歩というものはないと私は思っていて、彼の店で食べた時、

 

確かに普通の味で、可もなく不可も無くという感じがした

 

私の直感は間違っていないなと思ったのです。

 

 

逆にそれを押し付けるのも良くは無いのですが、何か自分の意見と言うものを

 

発してほしかったので、こういったコメを入れると、

 

もしかして彼が怒るかなとも思ったのですが、可もなく不可もない関わり方では、

 

つまらないと感じたのです。

 

 

 

 

昨年まで一緒に食事や小旅行に行っていたHO氏も自分の意見を言うこともなく、

 

私が行くところ、食べるものなら何でも良いと自分で決めることもせず、

 

私にすべてを決めさせ、料金が高いと思った時は私に払わせ、

 

1000円以内であれば彼が払うことを繰り返していました。

 

 

 

人に何かを決めさせるということは事の大小は関係なくて、

 

責任を押し付けていることになると考え、彼とは波長が合わないことを

 

強く感じていました。

 

 

 

その後、私は彼が来ても避けることはしませんでしたが、

 

自分の分は自分で払うといった当たり前のことを

 

水臭いとか言って、どちらかが一緒に支払うのが当たり前という考えには

 

違和感を持っていました。

 

 

 

 

料金が高かろうが安かろうがそれを貫き通すなら

 

彼の云うことも分かるのですが、私に決めさせておいて、

 

料金が彼の思った以上に高いと感じた時は、注文も控え、

 

結局私が支払ってきた結果、少額でも金銭が絡む食事や

 

神社仏閣巡りには彼を誘うことは無くなり、彼も察したのか

 

連絡が途絶えたのです。

 

 

 

 

 

要は奢ってもらうことへの感謝は何処へやら、あのとき奢った、奢ってやった

 

という恩を着せているに過ぎないと感じたからなのです。

 

 

 

 

感謝の循環がなければそれは付き合っていてもつまらないと思うのです。

 

 

 

人と付き合う線引きをしないと自分への意識する・しないことに拘わらず、

 

気持ちの取逸れが起こり、自分自身を大切にしていないことに

 

気づかされたのです。

 

 

 

これは1円であっても数万円でも額は関係ないのです。

 

 

 

恩義を感じたら返そうとする人としての礼節でもあり

 

心の在りようでもあるのです。

 

 

 

 

真に相手を認め、仲が良く付き合うのと、なあなあでツルむのとでは

 

明らかに満足した結果は得られないのです。

 

 

 

 

真に相手を認めというのは情を持って敬うことができるかだと思うのです。

 

 

 

 

以前の私は、お金は労働の対価であり、努力しないと得られないという

 

土の時代の考えをしていました。

 

 

 

 

そのくせお金に対して感謝もせず、ポンポンと使ってしまうということを

 

平気でやっていました。

 

 

 

 

これではお金に嫌われるのは当たり前だなと思ったことがあり、

 

努力するのは人に対してどうやれば満足してもらえる、喜んでもらえる

 

という事を考えもせずにお金だけを見て望んで商売していた、

 

または会社で働いていたのです。

 

 

 

貯蓄する、節約することで受け取った経済的なものをより安定させて、

 

生活するのにある程度のお金は持った上で余裕を持って生きていくという

 

基本が分からない限り、お金を大事にしないことにも気づかされたのです。

 

 

 

かつての私は、親から継いだ会社で経済的に豊かであったことから、

 

親が築いてきた人との信用の上に成り立って儲けさせてもらっている

 

ということに気づきませんでした。

 

 

 

 

結果その会社を解散し、B型肝炎のこともあって職を転々としてきました。

 

 

 

 

自分がお金に困っているのに人に寄付しているという事をしていたのでした。

 

 

 

 

そしてそこになかったのは感謝だと気づいたのです。

 

 

 

感謝するのにはまず自分に感謝できないと

 

他のものや人には感謝は出来ないことにも気づきがあり、

 

ことあるごとに

 

金銭的にも物質的にも損得といった事ばかりに意を取られ、

 

次元の低い、ものの考えに固執していて大事なものをないがしろに

 

していたような気がしていたのです。

 

 

 

 

 

そして集まるのは鰻にしようと店まで決めたのですが、鰻を予約して

 

買ってきて私の家でゆっくりと食べながら話をしようとなりました。

 

 

 

 

それも、確か土用の丑の日は4月16日だぞと言うと、人が多いときは

 

嫌だそうで一人の性格から外食するのが苦手で人見知り、という閉鎖的な、

 

それでいて、何かに対して文句を言ったり、不平や愚痴を言うのですが、

 

魂の光を発していないLine仲間がいるからなのです。

 

 

 

 

それでは内弁慶で、生きていて勿体ないと私は思うのですが、

 

彼の考えをすぐに変えることは他人が出来やしないし、

 

私がすべきことでもないのです。

 

 

 

 

取逸れがないという意味では、それはそれで私にとってちっぽけと感じられ、

 

今回は彼を尊重し、立てた方が良いだろうと思ったのです。

 

 

 

 

 

続きは次回以降アップしていきたいと

思いますので

少しでも、何か参考になったとか

興味があるとか気が落ち着いたと

思って下さると幸いです。

 

 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ヒーラーへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアルヒーリングへ