パソコン教室を営んでいる
和田基博と申します。
私の人生の中で知り合った人は数えてみたことはありませんが、
おそらく深い浅いは別にして今までの仕事関係でも相当数いて
顔見知りになった人では数百人はいると思われます。
人との付き合いは同じような環境で、幼馴染だったとか
学校のクラスで一緒だったとかスポーツや何かのコミュニティーや
団体で一緒になったとか、人それぞれになりますが、
縁、これが深いと感じたときに善し悪しは別にして
あると思います。
気心が知れる仲もあれば、惰性でいつもいるとか、
または逆に腐れ縁の場合もあると思います。
時に誰かを介して知り合いになり、何年か経って仲が良くなったり
することもあって人生は分からないものです。
私が感じているのは、縁が繋がり、何処か、何かで
それが恩を感じ、より深い付き合いとなって相手の事を
思う時につながりも深くなり、相手を尊敬できるようになると、
相手の気持ちがどうであろうとそんなことはもはや関係なくなって、
縁は深くなっていくものではないかと思っているのです。
友達と思えば友達に、尊敬する師匠であれば師匠になるという
心の在りようだと思うのです。
その中でも、この人とは一生付き合っていこうと決めた人がいます。
ハラスメントを受け、人間不信になって孤独を感じていた時に
私は釣りを通じて知り合いになりました。
年齢も一回り以上年上でしたが、人生経験からしても
常人ではおそらく経験したことがないであろうと思われる
不遇に出会って来られたことを、私と懇意になった後で
話してくれたことがありました。
人は誰でも長年生きていると多かれ少なかれ経験を積み重ね、
重みを増していくのですが、人によってはそれが自己満足の
自慢話であることが多いと感じていた私は、それが自慢話ではなく、
どんなことがあって、どのような考えを持つに至ったかなど、
心を開いて話しをしてくれることは、親以外、
滅多にあることではなかったのです。
当然考えや思考は異なるので、意見が違い、対抗したくなる事も
多々ありますが、私は違うと思っていても、相手を立て、
それが間違いだとわかっていても、一旦受け入れるのです。
相手の気持ちが強いと感じた時には、卑屈になる、相手に従う、
服従するのは、それは自分と相手を強弱で比較していることであり、
それに囚われない事でどんな人でもその心の裏側には
必ず愛はあるのです。
その上で、自分はこう思っている、という事をハッキリという事、
または示すことが、相手の求めていることでもあると
ずっと信じてやってきました。
その会話のやり取り、気持ちをぶつける、
心がぶつかり合った時ということでしょうか、
そこから相手が自分を認めてくれたのを
何度も経験してきました。
それは冷静に思考だけ、または世間での決まり事と
呼ばれるものだけではないような気がするのです。
上手く行かせようと考えると相手をコントロールしようと
することになります。
たとえ仲違いになったとしても構わないと思って
ハッキリと意思表示をするのです。
そこに利害があればそれだけの付き合いという事が分かるのです。
優しさや愛情があり、相手を理屈や思い込みで
コントロールしようとしないで子供の頃のような気持があれば
争いごとは起こらないのです。
相手が望むことが自分の許容範囲を超えた金銭や損得でなければ、
大抵の場合、相手を立てることで、立てるという事は相手を認める、
認めた上で礼節に重きを置くということで、
相手は自分の事を理解しようとしてくれるようになっていくと
今までの人生の経験からそう思えるのです。
時々は私も釣りの師匠の家に伺い、師匠の家の近くに
何か用事がある時はお宅へ立ち寄り、必ず手土産を
安くても良いから気持ちを持っていくのです。
そして話題がないときでも昔の磯釣りの話をして
会話が尽きることもないですし、いつも夫婦で会話をして
相も変わらず仲が良い奥さまと一緒に居られて幸せだと語る
師匠の笑顔に癒されるのです。
続きは次回以降アップしていきたいと
思いますので
少しでも、何か参考になったとか
興味があるとか気が落ち着いたと
思って下さると幸いです。