月初めはお供えも新しく | 希望と光のブログ

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思いついたことを書いていきます。

 

~疎外感や孤独を感じている人たちへ~

パソコン教室を営んでいる

和田基博と申します。
 




令和4年も12月を迎え、気持ちよく朝目が覚めて、

天井を眺めながら月の始まりかと起き出して、

洗顔して口を漱ぎ、身を清めてから、

神棚の神酒、塩、米、榊を新しいものと取り換え、

気持ちも新たに、いつも見守りお守りいただいたお礼と

感謝を述べ祝詞を上げました。



それから母が元気で過ごしていた頃、

日々祀っていた三宝荒神の神棚がキッチンにありますので、

酒、米、盛り塩、と荒神柴を取り換え、

いつも我が家の竈(かまど)、

実際にはオール電化の我が家には竈は無いのですが、

火の元を司る神にお礼と感謝の意を込めて

般若心経と真言を唱え、台所をいつも何不自由なく

快適に使えることに感謝しました。



三宝荒神の神棚は神仏習合で灯明、線香を立てて行うので、

通常の神棚は神道ですので少し違ってきます。



神仏習合とは神道しかなかった時代に仏教が入ってきても

それを融合して受け入れたということですが、キリスト教や

イスラム教一神教の他の宗教ではではあまり考えられない事で、

それは古代日本人が神様は一つではなく八百万の神といった

多神的特質を持った民族であったからという事です。



神棚でも、例えばお宮や神社で授かった弁財天などの

お札(ふだ)に真言を上げることもありますので、

神道や仏教に捉われることなく

他を排除しないという事が素晴らしいのだと思います。



他の神を受け入れるという事で古来日本人は、

山や海、森や木、岩などの自然物に多くの神々や精霊が宿る

と信じ、アニミズムや先祖の霊魂を大切にしてきた

歴史があるのです。




洗濯物と食事を済ませ、玄関の下駄箱にある水槽の金魚たちに

健康状態を知るために「お早う」の挨拶と金魚たちの観察、

それからエサを上げて家を出るのが日課ですが、

昨日水を替えたばかりなのでエサは少なめにして

玄関に鍵をかけて教室へと向かいました。




教室にも神棚を置いているので、

酒や米、塩、榊を取り換えて祝詞をあげ、それから外に出て

裏の庭にあるお堂で新しく買っておいた花や酒、米、塩、水を

取り替え、祖母やご先祖を供養するために

お勤めをしたのでした。



勤行次第を終えて念珠を外す前に

「婆ちゃん、〇〇ねえちゃん、ご先祖さま、どうぞ安らかに」と

話しかけ、それぞれの思い出を巡ることが供養になっているのかなと、

思ったりもしますし、供養の意味がすべてそこに詰まっている

と思うのです。


時には父がふざけて私に悪戯していたことを思い出し、

真言を唱えている最中に笑いが止まらなくなって、

笑いながら真言を唱え、これはいかん!と気持ちを引き締める

こともあったりするのです。




こういった時に感じるのが般若心経や真言を唱えている時にも

体にビリビリした感覚や脳が活性化してグラウンディングや

ワークや瞑想をしている時に感じる感覚を覚えることがあります。




気や念といった波動の周波数が合った時だと思うのですが、

何とも表現のしようのない高揚感に包まれるのです。



かつてお寺でお勤めに加わっている時に、

それぞれガラスのコップで水を供えて勤行していたですが、

その水がサイダーのように泡が立っていたのを思い出します。




真言はマントラと言い、いわば魔法の言葉で、唱えれば

唱えるほどに神にその意が届きやすくなり、

それが言霊となると信じられているのです。



マントラを唱えるのは音が重要で

多少言い回しやイントネーションは宗派によって違っても

同じご利益や願いになり、時には神仏の働きがあるのです。



なので、どんな気持ちで上げるのかという事が前提にあり、

貪瞋痴(とんじんち)と言いますが、

貪はむさぼり、瞋は愚痴をいうこと、感情をぶちまけること、

痴は無知であることを言い、自己弁護に走る、常識知らずで

自己利益しか考えないことで愚かなことを指します。



大概の場合、誰でも自分を見失った時や

知恵が働いていない時に

当てはまります。



また三毒とも言い、勤行次第にその戒めがあります。



そこには感謝がないと

向上心や愛や希望といったものにはつながらないのです。



例として、仏式作法の事を知らないからといって

「真言を上げたりするのは宗教に凝り固まっている」と言う人は、

まさに痴の境地なのです。



自分に危険が及ぶとか、押し付けられて迷惑がかかるとか、

そういった事でなければ、関りがなくわからないなら

わからないで、在るがままに無視すれば済むことです。



実際に知恵のある人や思慮深い人は、自分を大事にするので

関りがなければ、揶揄したり馬鹿にしたり、恐れたりは

しないものです。




私のK会の噂によるハラスメントはまさに、

そういったことを利用しているとも言えます。


目をつけられ蔑まれ、可哀想にという気持ちになる人もいれば、

生意気で虐めてやりたいとサディスティックな感情を抱く人と

二通りに別れるようです。


自分は噂で「あれ」は呼ばわりされたくないという

扇動と洗脳、または弱い本質を突くもので、

ある意味それは「見せしめ」や「脅し」であり

もし自分がその立場に立ったら、というどころか、

「絶対に、ああはなりたくない」とサディスティックに

憎しみまで抱くようになる人もいるのです。



その人と私に何か関りがあるかといえば、個人的には

何のかかわりも持たず、そのイジメのやり方、

時にはえげつないことを

見せつけられることで、その理由として誰しもが悲惨な事には

拒否反応を起こすからなのです。





しかし神や仏はいるものと私は信じていますが、

信じていてもいなくても、行った行動や行為に関しては、

現世かあの世かで責任を取らなくては

いけなくなっているようです。






なぜなら宇宙の法則は因果応報で成り立っているからです。


本人が望もうと望まざるに関わらず、です。


それは因縁がすべてにある、因は原因と考えればいいでしょうか、

縁はゆかりある事ですべては両方がそろって生じていることで、

因果の道理に反した教えは、例えば、般若心経などのお経には、

ないのです。


因果の道理とは因果応報の法則を指しているのです。


事は単純です、良い事をすれば褒められたり良いことが、

悪いことをすれば怒られたり、それが犯罪に相当するなら

裁判を受け、刑罰が下るという事です。



最近はお経や真言などでもサンスクリット語や

日本語に解説したものがネットにありますが、30数年前に

密教に関する書籍を買い、般若心経の訳を

読んだことがありました。



その最後の部分

「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」、

唱えるときは、

「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はぁらぁぎゃぁてい、

はらそうぎゃぁてい、ぼぉじぃそわか」でしょうか、

これがサンスクリット語だと

「ガテー、ガテー、パーラーガテー、パーラーサンガテー、

ボーディ、スヴァーハー」となり、訳すれば

「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、

彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」とあったのには、

これは悟り、覚醒といった

学びを知りたい者へのエールではないかと

少し驚いたことがあります。



朝のお堂での先祖供養の際にも

般若心経を何遍も繰り返して

唱えていますが、その意味を知ることも、

または知らなくても次第や教本を見ながらでもいいと

私は考えているのですが、実際に唱えることによって、

因果の道理に近づくことなのではないかと思っています。





 

続きは次回以降アップしていきたいと
思いますので少しでも、

何か参考になったとか

興味があるとか

気が落ち着いたと思って下さると
幸いです。

 

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