パソコン教室を営んでいる
和田基博と申します。
鎮国寺を出た後本道まで戻ってくると、
そこは宗像大社の鳥居の前の駐車場で、彼に寄っていくか
聞いたところ寄っていきたいとの事で
そのまま駐車場に車を止めました。
入り口のところにトイレがあるので
「トイレ行ってくる」というと彼もいっしょに入ってきて
「前来たの、何時かな?」と私が聞くと
「暑かったような気がする」と夏前後だったと
記憶しているようでした。
そのあと私は一人でお礼参りに来たので、
彼とは宝物館にきたのが最後かなと思ったのでした。
鳥居をくぐり本殿前に来ると参拝客も少なく、
私が祝詞を上げ始めるとよく聞こえたみたいで
彼は後ろの方で何かを見ていたようでしたが、
拍もパンパンと響き渡っていたようで、お札授与の巫女さんたちや
参拝客の何人かが私を見ていたようでした。
あとで、「だれも祝詞を上げているのを見たことないね」と
彼にいうと「そりゃそうだ」と明らかに変わっている
と言いたげな感じでしたが、私が上げたいのだから
誰かれにとやかく言われることも無い
自分は自分なのです。
本殿の神の前で作法を知っているなら、
祝詞や祓詞を神に伝えた方が断然いいのです。
神主しか上げてはいけないという決まりは
聞いたことがありませんし、かつて高千穂神社の権禰宜や
天の岩戸神社では知っているなら神も喜ぶので
祝詞は上げた方がいいですよと話してくれた神主や
当時通っていたお寺の和尚たちとも
一緒に上げたものでした。
祝詞(のりと)とは
「強い言霊を持つ、神様に申し上げるときに使う正式な言葉」
を意味し、その恥ずかしいや勝手に上げてはいけないという
思い込みこそ、ただ頭を下げるだけで、ご利益や願いをかけても
神に届きにくいのです。
こういったことも経験がそうさせることもありますが、
意志を持って神に感謝の意を述べることが大事で、
私は参拝前にお賽銭、住所、氏名、年齢と
口に出して名乗ってから
祝詞を上げるようにしています。
対人関係と同じで名乗らないと神も誰なのか不明なのです。
もう願い事はしなくなりましたが、参拝する神仏の神域に
来ることが出来て縁がつながったこと、その時間を
いただけたことに感謝することでお礼を言うようにしています。
ある意味神社や仏閣でお参りが出来るという事は、
神に呼ばれたことでもあると考えた方が
有難いのではないかと思っています。
どんなに行きたくてもいけない場合は呼ばれなかったのです。
呼ばれた場合は神との縁がつながるのです。
そうは言っても、私が誰かを連れて行った場合などもありますので、
やはり神社仏閣には相性もあり、彼に聞いても凄く落ち着く場所も
あり、何故か行った後でモヤモヤしたりすることもあるようですが、
それは自分の気持ちの問題だとスピ的な事を信用していない人は
そう考えるようです。
本殿から高宮の殿につながる門を通り
前回にお参りした神木に賽銭をあげ祝詞を上げました。
彼はその先へどんどん進んでいて私は一人で来た時に
お参りしたところはお礼参りを済ませていたので
「先ヘは行かないよ」と彼に言うと彼も戻ってきましたので、
そのまま本殿前に来て一礼をして駐車場へ向かいました。
私たちの前に二人の女性が歩いていて、駐車場まで来ると
大きなバイクに乗った女性ライダーで
2人でツーリングに来ていたようでした。
HO氏が私に「どこから来たんだろう?」と尋ねるので、
私が知る由もないので「声をかけて聞いてみたら?」と
車をバイクの前に寄せたのですが、彼は無言で黙ったままでした。
「興味があるなら声をかけたらいいのに」というと彼は
「いい」と言って黙り込んだのでした。
そう思ったなら折角のチャンスなのに、
「人生は一度きりだよ」とポツリと私が云うと、
「性格上向かん」という彼でした。
おそらく私が彼女たちに何か話しかけると
彼も話したのでしょうが、
彼はどこか人のふんどしで相撲を取るみたいな所があり、
私はこういった機会に彼にどうするか最善の行動を促したり
してみるのです。
それは自分で気づいていないところで相手が私だから、
そういったことができるのを無意識で
やっているのだろうと思います。
ウインウインの関係であれば、私は彼を自分の家に招き入れ
彼に出来る限りのもてなしをしますが、彼の自宅は知っているものの
彼は私を家に上げたことは、何か荷物を取りに行った時
だったのですが、用事があった1度きりしかありません。
どこかに行くにしても車を出すのもいつも私で、
タバコが欲しいときは私に1本頂戴とせがむのです。
こういったナアナアの日常を気づくようになると
対等でウインウインの関係かどうかが見えてきます。
これはタバコが惜しいとか彼の家に上がって何か
接待してもらいたいとか望んでいるわけでは無く、
双方に気が置けない、気兼ねなく接しているのか、
そういう関係なのかを考えた時に、
よくわかることもあるのです。
前にも書いたように彼には意固地なところもあり、
それは私もそうですが、自分の上限を超えたところで
相手がどう見えるのかと行ったところに辿り着きます。
彼は食事の際には料金をいつも払おうとしますが、
これが高級料理店に行った時には、注文を控え、
私が注文するままにそれを食べ、そういった時には
私が彼の分まで幾ら掛かろうと払うのです。
食事に関してはファミレスやチェーン店での安い食べ物しか
食べず、自分の体にも気持ちにも
ご褒美を出すという事が、
私と彼との違いです。
彼や自分が大切だと思った人のためなら
持ち金を叩いても構わないと思っていて、
彼がそうではないことも随分前から気づいていましたが、
折角の外食という絶好の機会に勿体ないと思うのです。
お金がモッタイないか気持ちが勿体ないかなのです。
いつも食べられるものなら、それは食事などが出来ない場合の
取りあえずの食事で非常食と同じだと私は考えています。
自分にご褒美ならば、それ相応の食事を褒美にしなければ
意味が無くなると私は考えているのです。
彼もそのくらいのお金は常時携帯していて
払えないことも無いのですが、そういう時は彼は高級店には
行きたがらないか、行ってもその支払いは私が払うのです。
今日の道の駅の手前の漁師料理の店で海鮮を食べた時も
価格で決めて安いものを頼みましたが、折角の機会を
失うことになるのは勿体ないと思うのは、どうやら彼には
そんな考えはないように思います。
彼がまだ若くて景気が良かった頃、勤めていたところでは
夕食に焼き肉が定番だったそうで、それを上司が全て払っていた
と聞いたことがあります。
どんどん食べろと勧められ、大食いを良くしていたと
彼が自慢するのですが、その奢ってくれた人が
どれだけの気を遣って食べさせ、気を遣いお金を出していたのか、
その人の気持ちを慮(おもんばか)れたのかということにつきます。
彼に聞くと尊敬していたと言いますが、その上司くらいの気前の良さや
心の広さを彼は学んでおらず、自分が大事にしたいと思ったら
そのくらいはできないでどうすると私は思うのですが、
それも育ちでしょうか、
人に恩を返すのは本人だけにあらず
自分の周りの大事に思う人にやってもらった分を返さないと、
それこそ人生ウインウインではないのです。
私に奢れと言っているわけでは無く、
その焼き肉を毎晩のように奢ってくれた気持ちに感謝することが
私は宗教であり自分を向上させる学びだと彼に伝えたいのです。
彼にマントラや祝詞を上げろと言っているのではなく
人からしてもらった事、また自分がしたことを自慢しない事を
身上とすべきで、そうでないと私は彼から学ぶものは何もなく、
波長が合わなくなりかけている今でもそうですが、
将来彼とはナアナアの関係には付き合わなくなるだろうと
予感しているのです。
自分の食べた分は自分で払う、それが本来の姿であり、
一目瞭然で、彼には「水臭い」という
曖昧さのある言葉を排除して、
自分の時間をどんどん大切にして
彼との距離は開いていくような予感がしています。
自分軸を保つこと、それも学びなのです。
続きは次回以降アップしていきたいと
思いますので少しでも、
何か参考になったとか
興味があるとか
気が落ち着いたと思って下さると
幸いです。
