皆様こんにちは。沙貴 誉 (さき ほまれ) です。
途中で中断していた記事を、やっと再開です。
いや、だってもう、華頂氏の存在を知ったら放置しておけなかったので、書いている記事を中断してまで皆様にお伝えしたかったのです。
それでは早速、前回からの続きを書いていきます。
マーカー部分は私が引きました。
前回ご紹介したマーカー部分は引いてありません。
一部、マーカー部分を増やしてあります。
以下、歴史に関する記述については、歴史は諸説あります。気になる方はご自身でも調べてみて下さいね。
皇位継承と男女平等は無関係だ/倉山満
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2023年08月07日(月)
(前略)
近代になってから、正式に成文法で女帝は禁止されたが、絶対にやってはいけない訳ではないし、必要があれば法など変えればよい。女帝とは女性の皇族が天皇になることである。歴代八方十代(重祚と言って、二回なった人が二人いる)の先例がある。完全な権力闘争の末に位についた奈良時代の称徳天皇以外は、全員が中継ぎだ。
中継ぎとして皇位に就いた女帝たち
中継ぎの理由は様々だ。古代では男の争いが激しすぎて、力のある女帝が皇位に就いて、政争の激化を回避した場合が多いし、中継ぎがそのまま長期政権となった飛鳥時代の推古天皇もいる。古代では中継ぎも実力者でないと務まらなかった。江戸時代の明正天皇は徳川幕府の圧力をかわす秘策として即位。後桜町天皇は、継ぐべき皇子が幼少なので中継ぎとなった。
持統・元明・元正は、天武天皇~草壁皇子~文武天皇~聖武天皇と、男系の中でも天武天皇の皇后であった持統天皇が、自らお腹を痛めて生んだ草壁皇子(後に岡宮天皇と諡られた)の子孫に皇統を継がせるための中継ぎだった。
聖武天皇の娘の孝謙天皇は他の天武系までの中継ぎであり、天武天皇の孫の淳仁天皇に譲ったが、争乱の末に皇位を奪還、称徳天皇となった。
この称徳天皇が単なる民間人の弓削道鏡に皇位を譲ろうとする大事件が発生、以後約800年以上も女帝は憚られた。
単なる一般国民の男を皇族にした例は一度もない
女帝は全員が未亡人か生涯独身だ。配偶者が天皇か皇族ならば問題ないが、単なる一般国民の男を皇族にした例は一度もない。現代において、女帝はやってはいけないが、極めて方法が難しいし、悠仁殿下がおわす以上、無理やりやる必要性が無い。
皇室では男性は皇族になれないが、女性はなれる。正田さん、小和田さん、川嶋さんだった方々のご活躍は周知の通り。ただし、愛子殿下・佳子殿下と違い、皇女ではない。
前近代でも、天皇の妻などは皇族として扱われた。南北朝の動乱で後伏見上皇の女御だった西園寺寧子は治天の君(院政を行える人)となり、皇室途絶の危機を救った。皇族として扱われていたから治天の君になれたのだ。もちろん皇女ではないが。
皇室の男女分業の歴史の一端、お知り頂けただろうか。
歴史を知ることが、くにまもりだ。
引用は以上です。
それでは、順番に見てみます。
称徳天皇が単なる民間人の弓削道鏡に皇位を譲ろうとする大事件が発生
称徳天皇と道鏡については、今後の研究が進まないと分からない部分も多いと思います。
今日まで正しく伝えられてきている部分もあると思います。
しかし、当時の権力者(反称徳側)の都合の良いように歴史が改ざんされている部分もあるかもしれません。
後世の人間が面白おかしく揶揄した部分などもあるかもしれませんし、冷静に分析して行かないと分からない部分も多いと思います。
特に称徳天皇と道鏡が男女の関係にあったかどうかは、実際にははっきりとは分かりません。
称徳天皇と道鏡の関係を貶めるために、中国の秦の始皇帝の母・趙姫と愛人のロウアイの関係をなぞらえたという説もあるくらいです。
…え?。趙姫とロウアイの関係って、どんな関係かって?。
あまりブログ上では詳しく書けないので、気になった方は調べてみて下さい。
始皇帝もしくは呂不韋(りょふい)という人物を調べれば、必ず出てくるエピソードです。
何故、称徳天皇は道教に皇位を譲ろうとしたのでしょうかね。
何かしらの理由があるはずですが。
「だから女が天皇なんてダメなんだ」
と思ったそこのアナタ。
その考え方は、女性蔑視ですね。
“女性”が悪いわけではなくて、称徳天皇個人を分析しないといけない問題なのですから。
女帝は全員が未亡人か生涯独身だ。配偶者が天皇か皇族ならば問題ないが、単なる一般国民の男を皇族にした例は一度もない
これも、何故そうなのか?、という部分の説明が無くて、あまり詳しくない人々にとっては意味不明でしかありません。
そして、過去の女帝は未亡人か生涯独身だったかもしれないけれど、それを現代でも継承するかどうかは別問題。
現代でも継承しろと言うならば、それは酷い人権侵害です。
私は自分のブログで何度も主張していますが、男性の血筋(姓)で王朝が変わる、妻は夫に従え(未婚の女帝はこれがあるから相手が男性皇族であっても結婚出来ずに生涯未婚を強いられたのでは???。女帝より偉い“夫”なんていう存在があってはなりませんからね)、などという儒教の思想に日本がいつまでも縛られるいわれは無いので、私は現代では女帝が一般国民の男性と結婚してもOK派です。
その場合、女帝と結婚した一般男性は、皇族になれるように皇室典範を改正すればいいと思います。
近代になってから、正式に成文法で女帝は禁止されたが、絶対にやってはいけない訳ではないし、必要があれば法など変えればよい
現代において、女帝はやってはいけないが、極めて方法が難しい
この2つの文章、矛盾していて意味不明です。
しかも下の文章は、特に意味が分かりません。
まあ、この記事全体を読むとこの著者は男系男子派なので、本心では、現代においてまた未来永劫、女帝はやってはいけないの方なのでしょう。
悠仁殿下がおわす以上、無理やりやる必要性が無い
はい、これがこの著者の本心。
でもね、不正やズルばかりする、天皇陛下も支えずに私利私欲を追い求め、天皇陛下への招待状を強奪するような傲慢な宮家から天皇が出るのは、まともな日本人からすれば耐え難いものです。
しかも悠仁様、日本だけでなく海外にまで“剽窃プリンス”として名高いのです。“剽窃プリンス”が“剽窃天皇”として即位しようものならば、少なからずの日本人が大反対するでしょうね。
そうなれば、天皇もその時点で終焉を迎えるかもしれませんね。
愛子殿下・佳子殿下と違い、皇女ではない。
大間違いです。
敬宮愛子内親王殿下は皇女です。
しかし佳子内親王殿下は、皇女ではありません。
何故こんな基本的な事も知らないのか。
例えば一般の皇室ファンが間違えるのは、仕方が無い部分もあります。あまり皇室の事は分からないが、純粋に皇室が好きだという国民も多いと思います。
しかし出版社から記事を出している、この著者がそこを間違えるのは、大きなミスだと思います。
本当はこの著者、あまり皇室の事を知らないのでは?。
前近代でも、天皇の妻などは皇族として扱われた
これって、事実なのでしょうか?。
私は違うと思うのですが、どなたかご存知の方はいらっしゃいますか?。
例えば平安時代、藤原氏出身の娘で天皇のもとに入内した中宮や女御などが存在しましたが、彼女らはあくまで貴族藤原氏の娘であり皇族として扱われた訳ではないと思うのですが、詳しくは分かりません。
江戸時代も徳川秀忠の娘が中宮として入内しましたが、皇族として扱われたのでしょうか?。
天皇の妻(例えば中宮)となれば皇族扱いされる訳ではなく、自分の持つ身分(徳川秀忠の娘ならば武家)はあくまでそのままであると私は思うのですが、どうなのでしょうか。私の考えが間違っているかもしれませんが。
分かる方がいらっしゃったら、教えていただきたいです。
南北朝の動乱で後伏見上皇の女御だった西園寺寧子は治天の君(院政を行える人)となり、皇室途絶の危機を救った
これもミスリードです。本当に悪質ですね。
以下、Wikipediaを参考にして、私なりにまとめてみます。
西園寺寧子は確かに、皇室出身でもなく、かつ女性の身で事実上の“治天の君”になった、日本史上唯一の存在です。
時代背景を軽く説明します。
まず、鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇が天皇自ら政治を行う「建武の新政」を開始します。
しかし「建武の新政」は上手くいきません。
その後、後醍醐天皇は足利尊氏との争いに負けて、大和(奈良県)吉野という地に逃れます。
後醍醐天皇はその地で、南朝政権を樹立します。
一方、足利尊氏は京都で天皇を擁立します。これが、北朝です。
南北朝の動乱の最中で、南朝側が北朝の断絶を図って、北朝側の全上皇と皇位継承者を拉致する、という事件が起こります。
これにより、北朝・室町幕府側の政治の中心である治天の君や天皇が不在となり、政治機能不全に陥ります。
北朝側の皇子・弥仁王が拉致されずに京都に留まっている事が判明し、弥仁王が天皇になる事が決定しました。
しかし、偽物の三種の神器しか持っていない北朝は(本物は南朝が持っている?。しかしどちらが本物を持っていたのかは不明らしい?)、皇位継承に当たっては最低限、治天の君による伝国詔宣が必要とされていました。
しかし、詔宣する上皇が拉致されていたため、上皇の不在が最大の課題でした。
この窮地を打開するために、北朝の上皇の実母・実祖母である西園寺寧子が、上皇の代理として伝国詔宣を行う案が立てられました。
室町幕府の代表者が、西園寺寧子に上皇の代理になるよう懇願しましたが、西園寺寧子は拉致事件になす術のなかった幕府や公家たちに強い不信感を表し、拒否しました。
幕府の懇願の果てにようやく西園寺寧子は承諾したそうなのです。
こうして、事実上、西園寺寧子が治天の君として、院政を開始する事になったのです。
(ちなみに、結果的には、弥仁王は西園寺寧子の伝国詔宣ではなく、継体天皇の「群臣義立」の先例をもとに践祚を終え、後光厳天皇となったそうです。)
はい、ここまで、まとめてみました。
さて、皆様はどの様な感想をお持ちになられましたか?。
ミスリードがどの部分か、気付かれましたか?。
そうです。
西園寺寧子が治天の君にならずとも、皇室そのものは途絶などしない、という事実が判明しましたね。
途絶するとしたら、北朝側の皇室です。
仮に北朝側の皇室が途絶しても、南朝が残ってますので、皇室の途絶などあり得ません。
万が一、北朝側の皇室が途絶したら、一番困るのは室町幕府です。
室町幕府の足利氏は北朝から征夷大将軍に任命されていますから、北朝が滅亡したら自分たちの正当性が無くなる訳です。
唯一残った南朝から、「逆賊の室町幕府を倒せ」という詔が出たら、室町幕府は朝敵となってしまいますからね。
朝敵とならないためには、室町幕府には何としても北朝の存在が必須なのです。
だから、皇族ではないが上皇たちの実母・実祖母に当たる西園寺寧子に白羽の矢が立てられ、治天の君への道が開かれたのだろうと思います。
なので、西園寺寧子は皇室を救ったと言うよりも(北朝を救ってはいますが)、実質的には室町幕府を救ったと言えます。
ちなみにWikipediaでは、ある歴史家の見解として、中世当時は、夫を亡くした妻がその家督を継ぐという後家家督慣行が武士の間に広く見られたそうです。
この慣行は、公家社会には観察されないそうです。
武家社会の慣行が、治天の君・西園寺寧子の登場に影響したと、そのような見解を示しているそうです。
皇族として扱われていたから治天の君になれたのだ。もちろん皇女ではないが。
天皇の妻が皇族として扱われたのか。
その辺はまだはっきりしませんが、私は違うのではないかと、今のところは思っています。
そして上記の西園寺寧子についての説明から、天皇の妻が皇族として扱われたからではなく、当時の武家の慣行が西園寺寧子に影響を与えた事が考えられます。
武家では妻が夫に代わり家督を継ぐ事が可能な社会だった。
それが皇室に影響して、西園寺寧子が治天の君になった。
それはひとえに、室町幕府の強力な支持があったからだ、と読み解く事が出来ると思います。
皇室の男女分業の歴史の一端、お知り頂けただろうか
すみません。この著者の説明では、意味不明過ぎて理解出来ませんでした。
歴史を知ることが、くにまもりだ
すみません。この著者は歴史の表面しかなぞっておらず、しかも自分の都合の良いようにしか書いていないと思います。
ミスリードが酷すぎて、話になりません。
この著者は、本当に歴史を知っているのでしょうか?。
皇女の区別もつかない著者に、くにまもりが出来るのでしょうか?。
歴史には諸説あり、どれが正しい歴史なのかは分かりません。
しかしこの著者のように、自分にとって都合よく歴史を展開するのは、正しい行為とは思えません。
歴史に対し、皇室に対し、日本国民に対し、誠実な態度だとは思えません。
もちろん、この著者の記事に対しどう思うかは、読者の方々の自由です。
私は、意味不明過ぎて評価出来ませんが。
長くなりましたが、私自身の感想や意見を書いてみました。
何故この記事についてここまで書くのか?、と疑問に思う方もいらっしゃると思いますが、日本と皇室と歴史を愛する者として、ここまで滅茶苦茶な事を書かれて放置する事が出来ませんでした。
皇室や歴史に詳しくない方々に、誤解を与える事ばかり書いてある記事だったので、私なりの意見や感想を書いたという訳です。
とは言え、くどいようですが、歴史は諸説あります。
私が書いた内容が正しいとは限らないので、気になる方、疑問をお持ちの方は、ご自分でもお調べになってみて下さい。
それでは皆様、素敵な一日をお過ごし下さい。
最後までお読みいただきありがとうございました。
愛と平和と喜びが皆様と共にありますように
参考資料
SPA!
2023年08月07日(月)
Wikipedia