糸田十八文庫 -5ページ目

糸田十八文庫

ブログの説明を入力します。キリシタン忍者、糸田十八が仲間に残す電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

イスラム教徒が忍者に挑戦する時に、イエスが「わたしは神だ、わたしを礼拝しなさい。」と言っている聖書箇所を示せと要求することがあります。
この質問は不毛であると考えます。処女降誕を信じるというなら、聖書に「処女降誕」という表現が有るのかと尋ねるのと変わらないのではないでしょうか。
同等、同質の事実が他の表現で述べられていれば、そう聖書に述べられている、書かれていると言うことができるからです。

イエスが自分を神だと述べたと断定できる聖書箇所は幾つかあります。神を表す語がよくわかるので、英語で示します。'I AM" という表現は、神が燃える柴の中からモーセに語られた時にその名を「わたしはある」と告げた表現の英訳です。(出エジプト三章十四節)ギリシャ語の旧約聖書によるこの部分の表現と、新約聖書(原典はギリシャ語)のイエスの言葉は同じ表現になります。
John 8:24 - “Therefore I said to you that you will die in your sins; for if you do not believe that I AM [He], you will die in your sins.”
John 8:58 - Then Jesus said to them, “Most assuredly, I say to you, before Abraham was, I AM.”

また、ユダヤ人の反応を見ればイエスの言葉が彼らに伝達した内容は明白です。
John 10:30-33 - Jesus answered them, “I and My Father are one.” Then the Jews took up stones again to stone Him. Jesus answered them, “Many good works I have shown you from My Father. For which of those works do you stone Me?” The Jews answered Him, saying, “For a good work we do not stone You, but for blasphemy, and because You, being a Man, make Yourself God.”

弟子に語られた言葉からも、イエスは自分が神だと言ったことが理解できます。
John 14:9-11 - Jesus said to him, “Have I been with you so long and yet you have not known Me, Philip? He who has seen Me has seen the Father; so how can you say, 'Show us the Father'?”

次に、イエスが自分を礼拝する者たちを咎めず、その礼拝を受けられたことが述べられている聖書箇所に目を留めましょう。
Matthew 28:9 And behold, Jesus met them and said, "Greetings!" And they came up and took hold of his feet and worshiped him.
John 20:28 Thomas answered him, "My Lord and my God!" イエスは私の「神」と表現したことについて、トマスを叱らず、受け入れています。

故に、これらの聖書箇所を示せば、イエスが「わたしは神だ、わたしを礼拝しなさい。」と言ったのと同等の内容が読み取れなければならなりません。





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深い思索ではなく、注解でもないという中途半端なものですが、このカテゴリーでお願いします。

 創世記の二十九章七節を見ると「 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。」という記述が有ります。いつも「目が弱々しい」とはどういうことかと疑問に思ってきました。弥生人のように細い目だったのだろうかと考えたりしました。
 今回は思い切ってネット検索をしてみましたところ、私が奥義書研究に使用しているソフトを提供している会社のウェブサイトに行き当たりました。記事を書いたのは聖書学の博士ですが、結論を出すのは難しいような雰囲気でした。しかし、その考察の中に、成程そういうことかもしれないと思える記述が有りましたので、ここでお分かちしたいと思います。
 一つの考え方としては、「目は弱々しい」という表現は古いユダヤ的熟語のようなものではないかというのです。日本語の表現に「足を引っ張る」というものが有りますが、実際には足は関係ありませんし、引っ張る動作も有りません。それと同様に、「目が弱々しい」というのも直接的に目やその外見には関係ないということです。
 そして、この表現が用いられたのが、レアとラケルという姉妹の比較の場面であったということに目を留めます。「目が弱々しい」の対になっているラケルの評価は、「美しい」というものでした。すると、これは女性の容貌、外見の様子、見た者の感想ということになります。すると、実際に表現したかったのは、レアの目がどんなものであったかではなく、その容貌や外見が当時の女性を見る基準、もしくはヤコブの好みから見た時、「魅力が少なかった」ということなのではないかと考えられます。
 具体的には華奢だったとか、太っていたとかということになるかもしれません。それは、ラケルは女性の羊飼いとして羊に水を飲ませに出かけましたが、レアがそういうことをした記述がないことから私が想像したことです。






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 この聖書箇所は、一般論的に引用されることがあります。しかし、そのような捉え方をすると、ヤコブの意図が薄くなってしまいます。文脈からこれを考える必要が有ります。
  
 ヤコブは直前まで神を考慮に入れず、自分の才覚と富にばかり目を留めている誇り高ぶったクリスチャンを戒めていたのです。その締めくくりに「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」という表現が来るのは、少々話が合わないと思われないでしょうか。
 ヤコブのユダ人クリスチャンに対する戒めの言葉は、二章からずっと続いてきました。するべきこと、してはならないことが述べられてきたのです。それをここで一段落つけるためにこのような締めくくり方をしたと考えるのが自然です。すると「なすべき正しいこと」は、ヤコブがそこまで書き連ねてきた戒めの内容に従うことであるということがわかります。
 今後、この聖書箇所の引用に出会った時には、依怙贔屓をしてはならない、憐みを示しなさい、虚栄心から教師になろうとしてはならない、兄弟姉妹を悪く言う、呪うような言葉を語ってはならない、敵対心を持ってはならない、言行一致が必要である、世を愛さず神に近づ生きなさい等の戒めに従い、実践しなさいということが第一義であると思い出していただければと思います。






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 カレブは(1)で述べた通り、イスラエル人がカナンを偵察する時に送られた十二人のスパイの一人でした。この時、神の命令の通りに攻め上ることを進言したのはこのカレブとモーセの従者であるヨシュアの二人でした。残りの十人は、カナン人には巨人がいて、彼らと比較すると自分達はイナゴにように小さいから、とても歯が立たないと言って、民全体の士気を挫いてしまいした。その結果、彼らは神に従わなかったので、荒野を四十年彷徨うことになってしまいました。
 さて、ヨシュア十四章を読むとカナンの地への入植が始まって五年後に、各部族に領地の割り当てを決めるためのくじ引きが有ったことがわかります。ユダ族には規模に合わせて南の方に大きな領土が割り当てられました。その時に、カレブはヨシュアの所に行って、神がモーセを通して四十五年前に約束したように、ユダ族の領地の中で、彼に特定の領地を与えて欲しいと願い出ました。そこで、ヨシュアはカレブを祝福して、カレブが願い出た地域を与えました。その地域はヘブロンと呼ばれる所でした。

 カレブがヘブロンを自分の割り当て地に願い出たのには大事な理由が有りました。
 一つ目は、ヘブロンは巨人であるアナク人の住んでいた地域だということです。四十五年前に、アナク人を見たために、残りの十人のスパイは不信仰に陥って罪を犯し、荒野で死ぬことになりました。カレブは四十五年前と同じ信仰を維持していたので、その地を取ることで、神の約束が確かなものであることを証したかったのだと考えることができます。約百八十年後に、同じユダ族のダビデが巨人ゴリアテに立ち向かった時、彼の心の中には神への信仰だけでなく、語り継がれたカレブの証が有ったのではないかと考えられます。
 二つ目は、ヘブロンはイスラエル人の始祖であるアブラハムに縁の深い土地だったということです。創世記十三章を見ると、アブラハム(当時はアブラム)が神を礼拝する祭壇を築いたことが書かれています。神への信仰を象徴する場所でもあったわけです。それだけではなく、アブラハムは神が子孫たちにカナンの地を与えると約束されたことを信じる証として、マクペラに墓地を買ってサラを葬りました。(イサクとリベカ、ヤコブとレアも葬られました。)カレブは、アブラハムの信仰を自分の信仰としたと言えます。そして、アブラハムの子孫が一つの国となることが神の約束でしたが、カレブがヘブロンを取ったことは、その約束の成就であり証であったのです。





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