糸田十八文庫 -4ページ目

糸田十八文庫

ブログの説明を入力します。キリシタン忍者、糸田十八が仲間に残す電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

46節、47節
「主よ」と呼ぶのは当時のラビ達への呼びかけ方の一つだったという解説もある。こう呼ぶことで、相手の権威を認める姿勢を示す。でも、一方で、ただその人の名声や権威を利用するという感覚も有るらしい。イエス様は「わたしの言うことを行わない」という姿勢を責めていらっしゃる。主と呼ぶだけでなく、本当にキリストを受け入れ、その故に御言葉を守って生きる人が真の弟子である。

イエス様の言葉を守るかどうかがこの箇所のポイントである。

48節
我々はみな人生、生き方建てあげる存在である。地面を深く掘り下げるということは、岩盤にたどり着くまで掘るということである。浅く掘って満足してはいけない。そのためには努力も必要であるだろう。またその働きにたいする忠実さも求められる。イエス・キリストによる救いの計画をきちんと理解するまでその教えを学んでいく姿勢。ことば」と呼ばれるイエス様の御心を知るために、聖書を読み込んでいく姿勢にもつながる。

洪水という言葉は海に対しても用いられる言葉で、その時は大きな波のうねりや潮の満ち引きと理解できるだろう。パレスチナでは高地に植物があまり多くないので、保水力がなく、冬の雨が降ると、それが一気に流れ下り、洪水となることがある。その水の流れる道筋にあるものは大概押し流されてしまった。ユダヤ文学的には、水は困難や混沌の象徴である。

潮の満ち引きも冬の洪水も、繰り返し起こるものである。我々の信仰生活にも、迫害、サタンの誘惑、人心の荒廃、偽教師による偽りの教えが常に付きまとい、繰り返し寄せて来るものである。しかし、その時に岩なるイエス・キリストとその教えまた福音の希望に深く根ざしている者は、少々の被害は有っても押し流されることは無い。

イエス様が居合わせた人たちに問うたのは、「あなた達の土台は単なる人の教えである長老達、ラビ達の伝統なのか、それとも神様の教えなのか。」ということである。それは、「私の教えは神からの教えだ」という主張でもあり、故にそれを行うことも求めることができたと言える。

49節
イエス様をただ自分のために利用したいだけの人々は、表面上は真の弟子と同様に振舞うが、その心と生き様はイエス様の教えという岩盤に到達していない。だから迫害や誘惑に遭うと、「すぐさま」流されてしまう。「倒れる」と訳される語は、大きな樫の木が響き渡る大きな音を立てて倒れる時のような倒れ方を指す。ニュアンスとしては全てが一気に倒れる感じも持っている。ルカは医者であったので、他の福音書の記者と異なった語を「壊れ方」という部分に用いている。体表の裂けた傷、怪我や、骨の裂けた様子に用いられる語である。



ポイントは、深くイエス様の教えを学びこむ努力と忠実さの上に、更に生活実践をすることにある。それが弟子であるか、それともイエス様を利用する者かの違いである。

これはコロサイ書1章9~12節のパウロの祈りにあらわれる信仰の原則とも共通する。またコロサイ書2章7節の表現は、このイエス様のたとえ話を連想させる。





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 二章の冒頭で、パウロはピリピの聖徒たちに一致するように呼びかけています。その実践のために必要なことが続けて書かれているのですが、十四節で、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」という指示をします。そして、目的が、続く十五節から十六節の中間まで示されています。
 十五節では、非難されることのない純真な者になること、傷のない神の子となることだと述べています。「純真な」と訳された語は、水割りされていない、混ぜ物のないぶどう酒を指して用いられるものだということです。それは、イエスの新しいぶどう酒と新しい皮袋の例話を思い起させます。新しいとは、イエスを信じる信仰によって義とされるという福音のことばです。イエス・キリストの福音のことばは、混ぜ物がない状態で保たれなければなりません。
 続いて十六節では、いのちの言葉をしっかり握って、曲がったこの世の人々の間で世の光として輝くためだと述べています。神の子供は、神のためにこの世から取り出された聖徒です。聖徒は神の掟、神の基準によって生きなければなりません。この世の基準ではなく、神の基準で生きていることが現れることが、聖徒が光であるということです。(光と言う表現についてはイザヤ42章6節も参照)そして、神の子どもであるということの中心的な要素は十六節の「いのちのことばをしっかり握って」と言う部分に示されているのです。
 「握って」と訳された語には、宴会で客にぶどう酒をすすめる、振る舞うという語感が含まれるということです。神の子どもは霊的な新しいぶどう酒である聖書の言葉の真理、イエス・キリストの福音をすすめるのです。勿論、しっかり握りしめるという語感も有ります。聖徒として、神の言葉をしっかり握りしめて、聖書の言葉に従って生きて行かなければなりません。この二つの意味が聖徒の中で車の両輪のように相互に働かなければなりません。(1ペテロ1章23節、2章三節、ヨハネ1章1節-5節参照)





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随分前のことですが、人間の体細胞は、7年で全部入れ替わるという記事を読みました。その後に読んだ記事では、性差が有って、男性は8年という記述が有りましたが、体験的には7年の方が当てはまるように思います。7年ごとの変化について、体験したことを書き残しておこうと思います。勿論個人差が有りますから、当てはまらないことも多いと思います。

高校、大学の体育の授業などで教えられていましたが、人間の体は24歳まで発達していくということです。それ以降は下降線をたどるということで、いかにその下降の度合いを緩やかにするかということが健康維持の課題になるということです。ですから、第三周期の21歳までは発達していく、充実していく感覚が有ると思います。問題は24歳を超えてからです。化粧品関連で言われていることは、24歳はお肌の曲がり角ということです。そこから肌は衰えていくということです。ですから、第四周期の28歳周辺から体の衰えが認識されてくることになります。

28歳頃-人によっては、冬の寒さなどの感じ方が変わってくるようです。寒さがそれ以前よりひとしお体にしみるように感じるかもしれません。

35歳頃-筋肉痛が現れるのが遅くなり始めるという話題がよくあがります。

42歳頃-老眼が始まる。

49歳頃-筋力が落ち始めて、以前力任せに動かせた荷物が動かしずらくなる。ごく小さい耳鳴りが始まる。

56歳頃-周囲の人や物の気配が少し判り辛くなる。皮膚が薄くなって、ちょっとぶつけたりこすれたりするだけで、擦過傷ができる。

63歳頃-物事の名称がすぐに思い出せないことがある。気力がやや後退して面倒くさいと感じる。目の前のことにとらわれて、直前の行動が念頭に無くて失敗をすることがある。

この先は私にもまだ未知の領域ですが、気を付けて生活したいと思います。



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講解と言う程のものではありませんが、奥義書の記述に基づいた説明ですので、このカテゴリーでお願いします。

 時々「カインの末裔」という言葉が思い浮かびます。有島武郎が同名の小説を書いており、2007年には奥秀太郎監督による同名のオリジナル映画が公開されたからではないかと思います。忍者としては、カインの罪の性質を知っているために、確かにそう言える存在と思える人々がいると感じる部分が有ります。
 翻って、奥義書に戻って考えてみますと、血統的なカインの末裔は今日存在しないのではないかと思われます。ノアの洪水の時には、箱舟に乗った8人以外は生き残ることができませんでした。ノアは奥義書に記録されているアダムとエバの三人目の息子、セツの子孫です。すると、カインの子孫は全滅したことになります。奥義書の記述から考えると、カインの子孫はセツの子孫と没交流の状態ではなかったかと思われるので、セツの妻や息子たちの妻がカイン系の家庭の出身であった可能性は大変低いように思います。
 しかし、神への反逆はカインに始まったことではありません。アダムとエバが神との約束を守らなかったことが人類の性質の根源となってしまいました。ですから、その意味では、精神的、霊的カインの末裔が地上を覆っているのだと考えることはできるでしょう。





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  表題の箇所を全部示すと、「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」となります。この神の言葉は過大で無理な要求のように思われる方も多いと思います。それは、わたしたちが「聖」という言葉の意味をよく理解していないことから来る感想だ思われます。私達は「聖」と聞くと、純粋で罪や汚れが無いことを思いがちです。しかし、奥義書における「聖」というのは、「神のために取り分けられる」「神に属する、神の領域に入れられる」という意味合いであって、その内容が異なります。
  レビ十九章全体は、神のために取り分けられた民は、他の民、民族と異なった、神の与えた行動規範で生活することを求め、示しています。そうすることによって、「聖なる者」となるのです。私達忍者も神が奥義書を通して啓示してくださった規範と教義に従って生活をしています。そうすることが「神のために取り分けられた者」としての歩みになるわけです。だから、私達は聖徒なのであり、聖徒と呼ばれるのです。
  聖なる者となったならば、それは、神に属し、神の支配する国に生きるということです。それは、天の御国における永遠の命に招き入れられることを含んでいます。ですから、この神の呼びかけは、私達に重圧をかけるようなものではなく、むしろ天国への招待状、神の愛の招待状と言えるものなのです。





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