「主よ」と呼ぶのは当時のラビ達への呼びかけ方の一つだったという解説もある。こう呼ぶことで、相手の権威を認める姿勢を示す。でも、一方で、ただその人の名声や権威を利用するという感覚も有るらしい。イエス様は「わたしの言うことを行わない」という姿勢を責めていらっしゃる。主と呼ぶだけでなく、本当にキリストを受け入れ、その故に御言葉を守って生きる人が真の弟子である。
イエス様の言葉を守るかどうかがこの箇所のポイントである。
48節
我々はみな人生、生き方建てあげる存在である。地面を深く掘り下げるということは、岩盤にたどり着くまで掘るということである。浅く掘って満足してはいけない。そのためには努力も必要であるだろう。またその働きにたいする忠実さも求められる。イエス・キリストによる救いの計画をきちんと理解するまでその教えを学んでいく姿勢。ことば」と呼ばれるイエス様の御心を知るために、聖書を読み込んでいく姿勢にもつながる。
洪水という言葉は海に対しても用いられる言葉で、その時は大きな波のうねりや潮の満ち引きと理解できるだろう。パレスチナでは高地に植物があまり多くないので、保水力がなく、冬の雨が降ると、それが一気に流れ下り、洪水となることがある。その水の流れる道筋にあるものは大概押し流されてしまった。ユダヤ文学的には、水は困難や混沌の象徴である。
潮の満ち引きも冬の洪水も、繰り返し起こるものである。我々の信仰生活にも、迫害、サタンの誘惑、人心の荒廃、偽教師による偽りの教えが常に付きまとい、繰り返し寄せて来るものである。しかし、その時に岩なるイエス・キリストとその教えまた福音の希望に深く根ざしている者は、少々の被害は有っても押し流されることは無い。
イエス様が居合わせた人たちに問うたのは、「あなた達の土台は単なる人の教えである長老達、ラビ達の伝統なのか、それとも神様の教えなのか。」ということである。それは、「私の教えは神からの教えだ」という主張でもあり、故にそれを行うことも求めることができたと言える。
49節
イエス様をただ自分のために利用したいだけの人々は、表面上は真の弟子と同様に振舞うが、その心と生き様はイエス様の教えという岩盤に到達していない。だから迫害や誘惑に遭うと、「すぐさま」流されてしまう。「倒れる」と訳される語は、大きな樫の木が響き渡る大きな音を立てて倒れる時のような倒れ方を指す。ニュアンスとしては全てが一気に倒れる感じも持っている。ルカは医者であったので、他の福音書の記者と異なった語を「壊れ方」という部分に用いている。体表の裂けた傷、怪我や、骨の裂けた様子に用いられる語である。
ポイントは、深くイエス様の教えを学びこむ努力と忠実さの上に、更に生活実践をすることにある。それが弟子であるか、それともイエス様を利用する者かの違いである。
これはコロサイ書1章9~12節のパウロの祈りにあらわれる信仰の原則とも共通する。またコロサイ書2章7節の表現は、このイエス様のたとえ話を連想させる。

