糸田十八文庫 -3ページ目

糸田十八文庫

ブログの説明を入力します。キリシタン忍者、糸田十八が仲間に残す電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

イエスの第二次伝道旅行と同行者の紹介

1節
それから間も無くということは、パリサイ人シモンの家での出来事の直後ということであろう。

ここは、ルカ福音書におけるイエスの第二次伝道旅行の開始を告げる部分である。この旅行を始める前は、ほぼカペナウムの中で教え、業をしておられた。

イエスは都市や村を行き巡られた。継続的動作を表す動詞が用いられている。イエスはたゆまず伝道し続けた。都市とは人の多い場所であり、村とは人の少ない場所である。イエスは人の多い場所を好むパリサイ人達とは異なり、例え人が少ない場所でも無視して通り過ぎるようなことはしなかった。イエスは誰のところにでも届こうとされる神である。

勿論その活動内容は、神の国の到来を宣言し、宣べ伝えることであった。それは、人間は罪ある存在であること、悔い改めときよめ、律法や行いによる義ではなく、神による義、罪の赦し、悪霊や病からの解放、心の平安などが含まれていたはずである。イエスは平和の君であり、神の国はその平和の君の支配する領域である。イエスがパリサイ人達を非難した時に述べたように、すでにこの教えを受け入れて悔い改め、神の国を体験し始めた人々が起こされていた。7節の最後に出てくる、イエスの足を洗った女性もその一人である。

同行者の最初にあげられるのは12弟子である。弟子はただの従う者たちではない、使者、伝令でもある。彼らはイエスのメシアとして行う奇跡の数々の目撃者、証人とならなければならなかった。また、使者、伝令としては、使わす者の考えとその内容を忠実に把握する必要があった。彼らは、繰り返しイエスの教え、教義に耳を傾ける必要がった。将来において、イエスの証人として証し、伝道するための備えの時でもあった。


2節
伝道旅行の同行者には、女性も複数含まれたいた。当時から考えたら、これは普通のことではなかった。ギリシャの哲学者についての話しにも、付き従う者の中に女性がいるということが非難の的となったというものが残っている。ラビの祈りの中には「女に生まれなかったことを感謝します」という内容のものがあったことが記録されている。しかし、創造主でもあるイエスには、そのような分け隔ては無かった。また、聖なる主であるキリストのグループの中に、女性がいたことに、不道徳でスキャンダラスなことは無縁であった。

この女性達には共通点が有った。悪霊の影響と病を癒された者達であった。病と訳される語は、身体的な病だけではなく、霊的な不具合も表す語である。これは、12弟子の中には見られない要素である。悪霊に支配され、心身共に不健康な状態であったら、どんなにか不自由で平安の無い生活であっただろうか。間違った言葉、悪霊の言葉に悩まされ、狂気に近い状態の者もいたかもしれない。ここで用いられている悪霊という語は、決して、比喩的表現ではない。同じ表現が、他の箇所では悪魔的な霊の描写としか解釈できない内容のところで用いられている。特にルカは断ってはいないが、勿論癒しはイエスを通して与えられたのである。この霊的な解放への感謝から、これらの女性達は、このイエスの伝道旅行に進んで同行することにしたのであろう。

ルカは三人の女性の名をあげていて、最初にマグダラのマリアを紹介している。マリア(旧約ではミリアム)という名は多く用いられたので、区別のために出身地などが添えられることが多かった。マグダラとは、がリラヤ湖西岸、カペナウムとティベリウスの間にあった町である。ヘブル語のミグドルに由来し、見張りの塔という意味のようである。ギリシャ風の地名では、魚と塩という意味があるとする解説書もある。それは、一世紀には干し魚産業で栄え、人口もその地方にしては多い、四万人を数えた都市だったからであろう。文化的繁栄には人間の堕落も影を落とし、ラビ達は、この町を「不道徳の町」としたという記録も有るらしい。

そんな都市出身のマリアは、悪霊の支配を受けやすい環境にも居たのであろう。ルカは七つの悪霊が彼女から出て行ったと記している。七つが実際に影響を与えた悪霊の数であるが、ヘブル文学の背景からすると、七は完全数であるので、完全に悪霊に支配されていたということを示唆する部分も有るのかもしれない。

そのような状態から解放されたマリアであったから、イエスに対する感謝の念は人一倍大きかったのかもしれない。彼女はイエスが十字架に掛かった時も離れたところからではあったが、その一部始終を見ていた。イエスの体が墓におさめらる時にも側にいた。復活の日にはイエスに油を塗ろうとして出かけて行って、最初に復活のイエスに会うという特権にあずかった。おそらくペンテコステまでともに集まって祈った百二十人あまりの弟子の中にも居たであろう。彼女がイエスに従い通したその姿勢は高く評価されるべきである。マグダラのマリアは娼婦であったという前提で語られることが多いが、聖書にはそれを示す記述は一つも無い。


3節
二番目にヨハンナが紹介されている。彼女の夫はガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスの執事のクーザであった。イエスの最初の伝道が、ヘロデの宮殿にまで届いていたことがうかがわれる。執事のイメージは、旧約で言えば、ポティファルに仕えたヨセフのような立場であった。財政管理やその他の管理を任されていたであろう。ヘロデ・アンティパスは残忍で悪辣な王として知られている。だから、彼の信頼を勝ち得たクーザは、大変賢くて切れ者であっただろう。人格者であったのか、それともヘロデ・アンティパスと気が合う悪者同士であったのかは判らない。彼がイエスに敬意を持っていたか、敵意を抱いていたかも不明である。しかし、ヨハンナが妻の立場を追われることなくイエスの伝道旅行に同行できたことは幸いであった。それは、彼女が悪霊と病から解放されたことが、クーザにとっても有り難い出来事であったからかもしれない。イエスの働きにはそういう力が有る。伝道旅行に同行することは、楽なことではない。しかし、彼女は王室に仕える者の妻にゆるされる不自由無い生活を離れて、イエスの伝道旅行に同行することにためらいは無かった。神の国が与えられたことに対する感謝はそれだけ大きかった。ルカはヨハンナの名も、イエスの体に香料や油を塗ろうとして出かけた女性達の中に記録している。

三人目にはスザンナが紹介されている。彼女については名前の他には何も語られていないし、聖書中にもここにしか出て来ない。しかし、先の二人と合わせてその名前が紹介されているのは、この三人が初代教会の中では知られた存在であったから、もしくはルカが個人的に知り合いであったからかもしれない。

この三人の中では、マリアとスザンナには夫についての記述が無いため、この二人は寡婦であったろうと考えることが多い。

ルカは、名前のあがった三人以外にも大勢の女性たちが同行していたことを記している。ギリシャ語では他の者達という意味になる語に複数の女性形の語尾がついている。この女性達のもう一つの共通点は、悪霊の影響と病から解放されたことの他に、自弁で経済的に彼らに仕えていたことである。「彼らに」というのは、イエスと十二弟子達のことを指す。仕えていたという語も継続的な動作を表す。おそらくイエスの昇天後も、キリストの体なる教会に、できる限りの支援をしたことだろう。


学ぶべきこと

これは単なるイエスによる第二次伝道旅行の構成員紹介ではない。聖書は現代に生きる我々に、また教会に向けられたメッセージでもある。ここから学ぶべきことはなんだろうか。

1)全ては神によって始められたということを覚えること。

神は人類にご自身を啓示された。そして、イエスという特別啓示をもって人類に届いてくださった。イエスは父なる神の御性質の現れであり、人々に届こうとし続けられた。どんな寒村でも見過ごされなかった。教会が存在するのも、クリスチャンが存在し、神の恵みに与っているのも、すべて神に帰することである。教会は神が始められたものであり、キリストの体であることを度々思い巡らすことに意味が有る。

2)聖書の教師は繰り返し学び、忠実に神の言葉を伝えること。

使徒、は使者であり伝令である。主の言葉を忠実に伝えなければならない。そのためには、主の言葉を繰り返し聞いて確かめ、正確にそれを伝えなければならない。教会の中には、今日使徒そのものは存在しないとしても、パウロが教会に仕える立場の中に数えたように教師は存在する。聖書的には長老の職は御言葉をきちんと解き明かして教え、異端や間違った教えが広がることを防ぐことである。そのような立場の者達がなすべきことは、自分の教えを伝えることではなく、主なるイエスの教え、教義を忠実に伝えることである。そのためには、繰り返し聖書を読み、その意味を確かめなければならない。また、現在も活きて働いているイエスの業を自らも体験し、分かち合い、率先して証するものでなければならない。また、イエスは御自身の権威でことをなされたが、祈りを通して、人々の解放を願い取り成さなければならない。もし自分が教師的立場であれば、尚更このことを心に留めなければならない。

3)霊的な問題の解決はイエスによらなければ与えられない。

この箇所で紹介された女性達は皆裕福であった。社会的地位の高い者の妻もいた。しかし、彼女達は悪霊の支配下にあり、心身共に不健全な状態であった。富や社会的地位は、彼女達を救わなかった。なす術が無ければ後は絶望である。しかし、イエスが悪霊から解放し、身も心も癒してくださったのだ。この解放がどれだけ大きな喜びをもたらしたかは、彼女達がこの伝道旅行に同行し、経済的にイエスと弟子達を支え続けたことから知ることができる。平和の君が治める神の国の市民となった恵みへの感謝が溢れている。

人類は、キリストによってサタンの支配から神の支配に移されなければ、どんなに富や名声や力があっても解決に至らない。それがはっきり自覚できた時は、絶望することであろう。その絶望が、真の希望への扉となることを願わされる。


4)与えられた立場と賜物を用いて教会に仕えること。

イエスに従う者たちの中には他にも裕福な男女は居たかもしれない。しかし、皆が同じようにこの伝道旅行に同行してこれを支えるということはできなかっただろう。事情がゆるさなかったりすることがあったであろう。女性達の中でも、この旅行に同行していろいろな世話や支援をしたいと思っても、そんな経済的な余裕が無かったり、夫の理解が無かったりということも有ったであろう。

ある領域で奉仕するためには、特別な立場や能力が必要な場合がある。それは神から与えられたものであり、恵み、特権である。それを自覚し、それを主のために、キリストの体なる教会のために用いることである。

この女性達には富があったが、それは彼女達の霊的な問題を解決しなかった。同様に、自分の音楽的才能やビジネスの才能などを一生懸命用いても、心に満足が得られないということは多く聞かれる。それらは霊的な問題を解決しない。しかし、一旦イエスによって、霊的問題が解決すると、それらの立場、才能や賜物は、贖われた用い方ができるようになり、喜んでそれをキリストのために用いることができるようになる。

本当に人々の霊的な解放をもたらすものは宣教と神の力だけである。しかし、当時、女性達が教えることは大変希であった。だから、この女性達も直接宣教に携わることは無かった。しかし、この経済的な支援を通して、イエスの第二次伝道旅行は支えられた。同様に、クリスチャンが皆宣教師、伝道師ということは無い。しかし、宣教献金が神の国の拡大の業を支えるならば、同様な意味がある。そのことによって、キリストの業に参与する者となれる。

クリスチャン達が、この女性達と同様に、自分の力では永遠に解決できない霊的解放をいただいた恵み、サタンの支配から救い出された喜びと感謝の心で、この世で与えられている能力、財力や賜物をもってキリストの体なる教会に仕えることをルカは勧めている。これは、彼の同労者であるパウロが教えていることと一致している。






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31節
「今の時代の人々」もしくは「この時代の人々」は誰を指すのか。イエスは前の箇
所でも神の御心に従って洗礼(ヨハネの)を受けた人と、神の御心を拒絶したパリ
サイ人を比較して語っている。この箇所ではパリサイ人という言葉は一度も出てこ
ないが、この表現が彼らを指していることは文脈から理解できる。

「この時代・世代」という表現は、旧約においてはいろいろな人々を指すために用
いられているが、申命記では、約束の地に入れないユダヤ人達を指して使われてい
る。そして、新約聖書では、イエス、ペテロやパウロによって、「神に敵対する
人々」という意味合いで用いられていることが殆どである。


32節
広場というのは、たくさんの人が集まる場所である。パリサイ人も人の多く集まる
場所にいて、人を教えたり、正したり、自分の善行を見せびらかしたりしていた。

子供達の歌の意味は何か。それはどういう場合に用いられたのか。

先ず、歌の意味である。最初の笛とは、結婚式の笛のことである。「結婚式ごっこ
をしようと誘ったのに、笛を吹く真似に応えて踊らなかった。」と言っている。ま
た日本語でも明らかなように、「葬式ごっこをしようと誘ったのに、泣き真似をし
てくれなかった。」と言っているのである。「泣く」と訳されている語の直接的な
意味は、悲しみの表現として「胸を叩く」ということである。

次に、この歌が歌われる場合である。どんな子供のグループでもボスやいじめっこ
がいる場合がある。そうすると、彼らが遊びの主導権を持ち、何をするかを決め
る。もし、嫌がる子がいると、無理にでも一緒に遊ばせようとして、このような歌
を歌ってからかったらしい。アメリカ映画で子供が「じゃあ家に帰ってママに甘え
るってのか~。」といってからかっているような場面と考えられる。

これは、「この時代の人々」の説明である。つまり、パリサイ人はこの子供のボス
みたいに、人の多く集まる場所に顔を出して、人の嫌がることを無理にさせるよう
ないやな性質があったということをにおわせている。

同時に、この歌は別な意味を暗示している。そのケースにおいては、パリサイ人は
相手の誘いに乗らない子供達を指している。

33節
バプテスマのヨハネはイナゴと野蜜を食べ、らくだの毛の衣を着ていた。また、当
時の食卓では普通に供されたぶどう酒を、天使から告げられた神の命令に従って飲
まなかった。彼は神に従う姿勢の中の、敬虔さや従順、そして悔い改めに重点のあ
る神の使者であった。

しかし、パリサイ人は、彼が「気に入らなかった」のだ。彼が真の神の使者である
にもかかわらず、自分達のプライドと権威をかさに、彼を「悪霊に憑かれている」
と評した。

34節
人の子、イエス・キリストは、多くの人と交わりを持ち、人々を神の国に招きいれ
る働きをした。イエスの働きは、神に従う姿勢の中で、父なる神の慈悲を反映させ
ることと、神の国を喜ぶことに重点があった。彼は単なる神の使者ではなく、メシ
アでもあった。

しかし、パリサイ人は、彼が「気に入らなかった」のだ。普通に食事をしただけで
あったのに、「食いしん坊の大酒飲み」だと評している。この表現は、旧約聖書に
おいて、親に暴力的に言い逆らう息子を公に訴える時に用いられる表現であった。
パリサイ人は、イエスをならず者扱いしているのである。

パリサイ人は、二人の神の使者のメッセージが「気に入らなかった」のだ。そこに
は、仲間の誘いを無視する子供のように、神の教えに対する共感が無かった。彼ら
は神本位ではなく、自分本位であった。宗教的にも政治的にも自分の力を頼みとし
ていた。

35節
知恵は、旧約聖書においては神を敬う敬虔な女性に擬えられる。また、知恵は神の
性質の一部である。また1コリント書1:13においては、イエスを知恵と表現し
ている。神の御心の正しさ、神の使者の言葉の正しさ、イエスとイエスの言葉の正
しさは、神本位に生きる人々によって証明される。クリスチャンを通して証明され
る。

証明されると訳された語は、「義とする、宣言する」という意味合いもある。神を
正しいとし、そのことを宣言するということになる。


適応
中心的なメッセージは、自分の力、自分の義に充足するのではなく、神の御心を謙
虚に受け止める姿勢を持つことによって、神を正しい方と崇め、表す姿勢を持つと
いうことである。

別の面としては、神の御心の表れが、ヨハネとイエスでは異なっていたように、
我々クリスチャンの間でも異なることが有り得るということである。
その時に、パリサイ人が「気に入らない」ということでそれを拒絶したように、拒
絶の態度を取ってはいけないということになるであろう。他の教派の礼拝形式は駄
目だの古いだの、あの信者の賛美の姿勢は敬虔に見えないだのの、批判的な心を持
つべきではないということであろう。どちらも神の御心を求めた結果である。






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ルカ7章24節~30節

24節
風に揺れる葦は、旧約聖書の中でも周囲に流される主体性の無い人物の比喩として
使われている。弱さを表す。そして、そんな人に会うためにわざわざ荒野に出て行
った人は居なかった。バプテスマのヨハネはそんな人ではなかった。

25節
金持ちや権力者の描写である。確かに、そんな人たちを頼れば力になる場合は有る
だろう。でも、人々はそんな人を求めて宮廷などには行かず、荒野に出かけた。
霊的な助けは、世の富や権力から得るものではない。

26節
霊的な助けや力は、神の言葉を語る人のところに求めに行かなければならない。
バプテスマのヨハネは正にそういう人であった。しかし、彼はただの預言者ではな
かった。

27節
彼は、単なる預言者ではなく、その出現が預言されていた特別な預言者である。し
かも、その任務も特別であった。メシアの露払いをし、道を備える働きである。
「備える」という語のニュアンスは「完璧に、念入りに備える」という感じである。

28節
そんな大預言者であるから、かれが「女から生まれた者のなかで」一番偉大である
とされる。しかし、新約聖書の時代の「霊によって生まれた者」である神の国の市
民権を持っているクリスチャンは、彼よりもすぐれているのである。それは、バプ
テスマのヨハネが生存中に体験することができなかった、イエス・キリストの十字
架の贖いによる救いと、聖霊の証印・内住をクリスチャンは持っているからである。
「わたしはイエス・キリストと聖霊によって、バプテスマのヨハネより偉大だ」と
いう認識があるだろうか。

29節
収税人を上げるのは、ユダヤ人にとっては驚きであったろう。罪びと、もしくは罪
びととみなされる存在だったからである。しかし、彼らは神の義を認めた。それは、
1)神は義なる神であると認める。
2)自分はその義に届かない罪びとであり、神の赦しを得なければならないと認め
  る。
3)神の使者の言葉に従い、従順して洗礼を受ける。
といことを含んでいる。

30節
パリサイ人達は、自分が律法を守っているということで自らを義として、神の義を
認めなかった。当時の洗礼は、異教徒、異邦人がユダヤ教に改宗するときの儀式で
あったから、パリサイ人はそれをする必要を認めなかったし、神の使者のそういう
指示に耳を貸す謙遜さも無かった。

彼らは神のみこころを拒んだ。神のみこころとは、私達が上記の3点をに従って、
最終的にはイエス・キリストによる救いを得ることである。



私達が、いつも神のみこころにそった、神の国の市民としての歩みをしているかを
考えることが必要。
私達にあるのは、バプテスマのヨハネよりも偉大な者とされた特権である。






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百人隊長が天の父なる神様の御性質を反映した生き方をし、イエスの権威に対する
全き信仰を持っていたことに、読者が倣うようにという意図がある。

病人の側に来て癒しの奇跡を行うことだけでも素晴らしいことであったが、距離が
ある程度離れた所からの癒しは、もっと強力な奇跡の力と認められるものであった。
百人隊長の信仰が、このような奇跡で応えられたということも、彼の信仰への評価
であると思われる。

イエスはこの百人隊長の信仰に「驚いた」と書いてある。
他の訳では「感心し」となっている。
しかし、イエスは神であるのだから、すでに彼の心の内を知っていたであろう。
その意味では「驚いた、感心した」という訳はあまりぴったりではない。
この語は「賞賛する」という意味も持っている語であるから、むしろ、その訳を当
てる方が適切なように思われる。

イエスが賞賛する信仰の姿勢とは何か。
「天の父の慈悲深さに倣い、イエスの救世主としての権威に全幅の信頼を持つ」、
そういう信仰の姿勢である。


ナインの寡婦の一人息子を蘇生させる(11~17節)

寡婦で、しかも一人息子を亡くすということは、生活を支える手立てが無いという
ことであった。そのような人が自活できるような仕事や環境は無い時代だった。

ここではイエスご自身が天の父なる神の慈悲深さを現す。

「泣くことはない」と声を掛けるということは、必ず助けることを約束する言葉と
人々には理解されたはずである。しかし、イエスは金持ちではなかった。弟子を残
してこの寡婦のために働かせるということも考えれない。

すると答えは一つ、息子を生き返らせることであった。

息子が生き返るのを見て、人々はエリヤやエリシャのことを思った。確かにこの二
人の預言者は死んだ息子を生き返らせる奇跡を行っている。しかし、彼らは一生懸
命神に祈った結果答えられたのであって、彼ら自身に力が有ったわけではなかった。
しかし、イエスは「わたしはあなたに言う。起きなさい」という風に、ご自身の権
威によってこれをなされた。

この二つの奇跡は同日、もしくは二日以内に連続して行われたと考えられる。瀕死
の人間の癒しよりは、既に死んだ者の生き返ることの方が更なる困難を退ける奇跡
である。このような奇跡のダブルパンチは、イエスのメシア性をはっきり示し、証
明するものであった。

神の助けのタイミングはぴったりである。
律法の規定により、死体はその日のうちに埋葬されないと、その家は穢れたものと
みなされた。だから、イエスが行き合わせたのは夕方であろう。それまでに、悲し
みの時間を過ごし、埋葬の準備として油を塗ったり香料を塗ったりしたのである。

キリストの到着が遅ければ、民衆は去り、奇跡は多くの証人を得ることができなか
ったであろう。早すぎれば、人々は死者が生き返ったとは信じず、瀕死の人が癒さ
れたとしか思わなかったであろう。神の栄光を現すのに調度良いタイミング、しか
もその奇跡を必要とする人に与えられている。

イエスキリストは神の一人子である。多くの群集に伴われた。
無くなった人も一人息子であり、多くの群集に伴われてきた。
(彼が人望の厚い人だったから、もしくはそれが当時の習慣だったから)
しかし、片方には命は無かった。イエスこそが命の主である。
この命の主に出会う時、人類の最後の敵である死にも打ち勝つことができるのである。






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46節、47節
「主よ」と呼ぶのは当時のラビ達への呼びかけ方の一つだったという解説もある。こう呼ぶことで、相手の権威を認める姿勢を示す。でも、一方で、ただその人の名声や権威を利用するという感覚も有るらしい。イエス様は「わたしの言うことを行わない」という姿勢を責めていらっしゃる。主と呼ぶだけでなく、本当にキリストを受け入れ、その故に御言葉を守って生きる人が真の弟子である。

イエス様の言葉を守るかどうかがこの箇所のポイントである。

48節
我々はみな人生、生き方建てあげる存在である。地面を深く掘り下げるということは、岩盤にたどり着くまで掘るということである。浅く掘って満足してはいけない。そのためには努力も必要であるだろう。またその働きにたいする忠実さも求められる。イエス・キリストによる救いの計画をきちんと理解するまでその教えを学んでいく姿勢。ことば」と呼ばれるイエス様の御心を知るために、聖書を読み込んでいく姿勢にもつながる。

洪水という言葉は海に対しても用いられる言葉で、その時は大きな波のうねりや潮の満ち引きと理解できるだろう。パレスチナでは高地に植物があまり多くないので、保水力がなく、冬の雨が降ると、それが一気に流れ下り、洪水となることがある。その水の流れる道筋にあるものは大概押し流されてしまった。ユダヤ文学的には、水は困難や混沌の象徴である。

潮の満ち引きも冬の洪水も、繰り返し起こるものである。我々の信仰生活にも、迫害、サタンの誘惑、人心の荒廃、偽教師による偽りの教えが常に付きまとい、繰り返し寄せて来るものである。しかし、その時に岩なるイエス・キリストとその教えまた福音の希望に深く根ざしている者は、少々の被害は有っても押し流されることは無い。

イエス様が居合わせた人たちに問うたのは、「あなた達の土台は単なる人の教えである長老達、ラビ達の伝統なのか、それとも神様の教えなのか。」ということである。それは、「私の教えは神からの教えだ」という主張でもあり、故にそれを行うことも求めることができたと言える。

49節
イエス様をただ自分のために利用したいだけの人々は、表面上は真の弟子と同様に振舞うが、その心と生き様はイエス様の教えという岩盤に到達していない。だから迫害や誘惑に遭うと、「すぐさま」流されてしまう。「倒れる」と訳される語は、大きな樫の木が響き渡る大きな音を立てて倒れる時のような倒れ方を指す。ニュアンスとしては全てが一気に倒れる感じも持っている。ルカは医者であったので、他の福音書の記者と異なった語を「壊れ方」という部分に用いている。体表の裂けた傷、怪我や、骨の裂けた様子に用いられる語である。



ポイントは、深くイエス様の教えを学びこむ努力と忠実さの上に、更に生活実践をすることにある。それが弟子であるか、それともイエス様を利用する者かの違いである。

これはコロサイ書1章9~12節のパウロの祈りにあらわれる信仰の原則とも共通する。またコロサイ書2章7節の表現は、このイエス様のたとえ話を連想させる。





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