1節
それから間も無くということは、パリサイ人シモンの家での出来事の直後ということであろう。
ここは、ルカ福音書におけるイエスの第二次伝道旅行の開始を告げる部分である。この旅行を始める前は、ほぼカペナウムの中で教え、業をしておられた。
イエスは都市や村を行き巡られた。継続的動作を表す動詞が用いられている。イエスはたゆまず伝道し続けた。都市とは人の多い場所であり、村とは人の少ない場所である。イエスは人の多い場所を好むパリサイ人達とは異なり、例え人が少ない場所でも無視して通り過ぎるようなことはしなかった。イエスは誰のところにでも届こうとされる神である。
勿論その活動内容は、神の国の到来を宣言し、宣べ伝えることであった。それは、人間は罪ある存在であること、悔い改めときよめ、律法や行いによる義ではなく、神による義、罪の赦し、悪霊や病からの解放、心の平安などが含まれていたはずである。イエスは平和の君であり、神の国はその平和の君の支配する領域である。イエスがパリサイ人達を非難した時に述べたように、すでにこの教えを受け入れて悔い改め、神の国を体験し始めた人々が起こされていた。7節の最後に出てくる、イエスの足を洗った女性もその一人である。
同行者の最初にあげられるのは12弟子である。弟子はただの従う者たちではない、使者、伝令でもある。彼らはイエスのメシアとして行う奇跡の数々の目撃者、証人とならなければならなかった。また、使者、伝令としては、使わす者の考えとその内容を忠実に把握する必要があった。彼らは、繰り返しイエスの教え、教義に耳を傾ける必要がった。将来において、イエスの証人として証し、伝道するための備えの時でもあった。
2節
伝道旅行の同行者には、女性も複数含まれたいた。当時から考えたら、これは普通のことではなかった。ギリシャの哲学者についての話しにも、付き従う者の中に女性がいるということが非難の的となったというものが残っている。ラビの祈りの中には「女に生まれなかったことを感謝します」という内容のものがあったことが記録されている。しかし、創造主でもあるイエスには、そのような分け隔ては無かった。また、聖なる主であるキリストのグループの中に、女性がいたことに、不道徳でスキャンダラスなことは無縁であった。
この女性達には共通点が有った。悪霊の影響と病を癒された者達であった。病と訳される語は、身体的な病だけではなく、霊的な不具合も表す語である。これは、12弟子の中には見られない要素である。悪霊に支配され、心身共に不健康な状態であったら、どんなにか不自由で平安の無い生活であっただろうか。間違った言葉、悪霊の言葉に悩まされ、狂気に近い状態の者もいたかもしれない。ここで用いられている悪霊という語は、決して、比喩的表現ではない。同じ表現が、他の箇所では悪魔的な霊の描写としか解釈できない内容のところで用いられている。特にルカは断ってはいないが、勿論癒しはイエスを通して与えられたのである。この霊的な解放への感謝から、これらの女性達は、このイエスの伝道旅行に進んで同行することにしたのであろう。
ルカは三人の女性の名をあげていて、最初にマグダラのマリアを紹介している。マリア(旧約ではミリアム)という名は多く用いられたので、区別のために出身地などが添えられることが多かった。マグダラとは、がリラヤ湖西岸、カペナウムとティベリウスの間にあった町である。ヘブル語のミグドルに由来し、見張りの塔という意味のようである。ギリシャ風の地名では、魚と塩という意味があるとする解説書もある。それは、一世紀には干し魚産業で栄え、人口もその地方にしては多い、四万人を数えた都市だったからであろう。文化的繁栄には人間の堕落も影を落とし、ラビ達は、この町を「不道徳の町」としたという記録も有るらしい。
そんな都市出身のマリアは、悪霊の支配を受けやすい環境にも居たのであろう。ルカは七つの悪霊が彼女から出て行ったと記している。七つが実際に影響を与えた悪霊の数であるが、ヘブル文学の背景からすると、七は完全数であるので、完全に悪霊に支配されていたということを示唆する部分も有るのかもしれない。
そのような状態から解放されたマリアであったから、イエスに対する感謝の念は人一倍大きかったのかもしれない。彼女はイエスが十字架に掛かった時も離れたところからではあったが、その一部始終を見ていた。イエスの体が墓におさめらる時にも側にいた。復活の日にはイエスに油を塗ろうとして出かけて行って、最初に復活のイエスに会うという特権にあずかった。おそらくペンテコステまでともに集まって祈った百二十人あまりの弟子の中にも居たであろう。彼女がイエスに従い通したその姿勢は高く評価されるべきである。マグダラのマリアは娼婦であったという前提で語られることが多いが、聖書にはそれを示す記述は一つも無い。
3節
二番目にヨハンナが紹介されている。彼女の夫はガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスの執事のクーザであった。イエスの最初の伝道が、ヘロデの宮殿にまで届いていたことがうかがわれる。執事のイメージは、旧約で言えば、ポティファルに仕えたヨセフのような立場であった。財政管理やその他の管理を任されていたであろう。ヘロデ・アンティパスは残忍で悪辣な王として知られている。だから、彼の信頼を勝ち得たクーザは、大変賢くて切れ者であっただろう。人格者であったのか、それともヘロデ・アンティパスと気が合う悪者同士であったのかは判らない。彼がイエスに敬意を持っていたか、敵意を抱いていたかも不明である。しかし、ヨハンナが妻の立場を追われることなくイエスの伝道旅行に同行できたことは幸いであった。それは、彼女が悪霊と病から解放されたことが、クーザにとっても有り難い出来事であったからかもしれない。イエスの働きにはそういう力が有る。伝道旅行に同行することは、楽なことではない。しかし、彼女は王室に仕える者の妻にゆるされる不自由無い生活を離れて、イエスの伝道旅行に同行することにためらいは無かった。神の国が与えられたことに対する感謝はそれだけ大きかった。ルカはヨハンナの名も、イエスの体に香料や油を塗ろうとして出かけた女性達の中に記録している。
三人目にはスザンナが紹介されている。彼女については名前の他には何も語られていないし、聖書中にもここにしか出て来ない。しかし、先の二人と合わせてその名前が紹介されているのは、この三人が初代教会の中では知られた存在であったから、もしくはルカが個人的に知り合いであったからかもしれない。
この三人の中では、マリアとスザンナには夫についての記述が無いため、この二人は寡婦であったろうと考えることが多い。
ルカは、名前のあがった三人以外にも大勢の女性たちが同行していたことを記している。ギリシャ語では他の者達という意味になる語に複数の女性形の語尾がついている。この女性達のもう一つの共通点は、悪霊の影響と病から解放されたことの他に、自弁で経済的に彼らに仕えていたことである。「彼らに」というのは、イエスと十二弟子達のことを指す。仕えていたという語も継続的な動作を表す。おそらくイエスの昇天後も、キリストの体なる教会に、できる限りの支援をしたことだろう。
学ぶべきこと
これは単なるイエスによる第二次伝道旅行の構成員紹介ではない。聖書は現代に生きる我々に、また教会に向けられたメッセージでもある。ここから学ぶべきことはなんだろうか。
1)全ては神によって始められたということを覚えること。
神は人類にご自身を啓示された。そして、イエスという特別啓示をもって人類に届いてくださった。イエスは父なる神の御性質の現れであり、人々に届こうとし続けられた。どんな寒村でも見過ごされなかった。教会が存在するのも、クリスチャンが存在し、神の恵みに与っているのも、すべて神に帰することである。教会は神が始められたものであり、キリストの体であることを度々思い巡らすことに意味が有る。
2)聖書の教師は繰り返し学び、忠実に神の言葉を伝えること。
使徒、は使者であり伝令である。主の言葉を忠実に伝えなければならない。そのためには、主の言葉を繰り返し聞いて確かめ、正確にそれを伝えなければならない。教会の中には、今日使徒そのものは存在しないとしても、パウロが教会に仕える立場の中に数えたように教師は存在する。聖書的には長老の職は御言葉をきちんと解き明かして教え、異端や間違った教えが広がることを防ぐことである。そのような立場の者達がなすべきことは、自分の教えを伝えることではなく、主なるイエスの教え、教義を忠実に伝えることである。そのためには、繰り返し聖書を読み、その意味を確かめなければならない。また、現在も活きて働いているイエスの業を自らも体験し、分かち合い、率先して証するものでなければならない。また、イエスは御自身の権威でことをなされたが、祈りを通して、人々の解放を願い取り成さなければならない。もし自分が教師的立場であれば、尚更このことを心に留めなければならない。
3)霊的な問題の解決はイエスによらなければ与えられない。
この箇所で紹介された女性達は皆裕福であった。社会的地位の高い者の妻もいた。しかし、彼女達は悪霊の支配下にあり、心身共に不健全な状態であった。富や社会的地位は、彼女達を救わなかった。なす術が無ければ後は絶望である。しかし、イエスが悪霊から解放し、身も心も癒してくださったのだ。この解放がどれだけ大きな喜びをもたらしたかは、彼女達がこの伝道旅行に同行し、経済的にイエスと弟子達を支え続けたことから知ることができる。平和の君が治める神の国の市民となった恵みへの感謝が溢れている。
人類は、キリストによってサタンの支配から神の支配に移されなければ、どんなに富や名声や力があっても解決に至らない。それがはっきり自覚できた時は、絶望することであろう。その絶望が、真の希望への扉となることを願わされる。
4)与えられた立場と賜物を用いて教会に仕えること。
イエスに従う者たちの中には他にも裕福な男女は居たかもしれない。しかし、皆が同じようにこの伝道旅行に同行してこれを支えるということはできなかっただろう。事情がゆるさなかったりすることがあったであろう。女性達の中でも、この旅行に同行していろいろな世話や支援をしたいと思っても、そんな経済的な余裕が無かったり、夫の理解が無かったりということも有ったであろう。
ある領域で奉仕するためには、特別な立場や能力が必要な場合がある。それは神から与えられたものであり、恵み、特権である。それを自覚し、それを主のために、キリストの体なる教会のために用いることである。
この女性達には富があったが、それは彼女達の霊的な問題を解決しなかった。同様に、自分の音楽的才能やビジネスの才能などを一生懸命用いても、心に満足が得られないということは多く聞かれる。それらは霊的な問題を解決しない。しかし、一旦イエスによって、霊的問題が解決すると、それらの立場、才能や賜物は、贖われた用い方ができるようになり、喜んでそれをキリストのために用いることができるようになる。
本当に人々の霊的な解放をもたらすものは宣教と神の力だけである。しかし、当時、女性達が教えることは大変希であった。だから、この女性達も直接宣教に携わることは無かった。しかし、この経済的な支援を通して、イエスの第二次伝道旅行は支えられた。同様に、クリスチャンが皆宣教師、伝道師ということは無い。しかし、宣教献金が神の国の拡大の業を支えるならば、同様な意味がある。そのことによって、キリストの業に参与する者となれる。
クリスチャン達が、この女性達と同様に、自分の力では永遠に解決できない霊的解放をいただいた恵み、サタンの支配から救い出された喜びと感謝の心で、この世で与えられている能力、財力や賜物をもってキリストの体なる教会に仕えることをルカは勧めている。これは、彼の同労者であるパウロが教えていることと一致している。

