『神を畏れて生きる』
(ネヘミヤ記5章1節~13節)
(2024年9月8日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
昔も今も、日本でも世界でも、太陽を神のごとく拝む人たちがいます。
ギリシャ神話には「アポロン」や「ヘーリオス」という太陽神が登場しますし、古代ローマ帝国でも、不滅の太陽を拝み、太陽の誕生を祝う祭りがありました。
後に、ローマ皇帝がキリストを信じ、キリスト教が国教となると、この日(12/25)を義の太陽であるキリストの誕生を祝う日とし、今に至っています。
神道でも、天照大御神を、太陽神として祀ていますし、日本人は、太陽に手を合わせ、畏れ敬い、親しみを込めて、「お日様」とか「お天道様」とか、太陽に様を付け、まるで人格があるかのように呼び、接してきました。
昔の人は、子供に、お天道様は見ているからね。嘘はダメよ。ごまかさず、正直に生きなさい、悪いことをすると罰が当たるよ、と子供を育ててきました。
天に唾を吐くと戻って来る。因果応報、罪の報いを受ける。
こうした教えが、罪と悪から身を守る抑止力となっていたように思います。
お天道様は見ている。これは聖書的には、天地万物を造られた神、今も生きて働いておられる神様は、天から見ておられる、というメッセージです。
正しくは、お天道様でなく、太陽も含む、天地万物を造り、支配しておられる神様は、見ている、ということなのです。
神様はアブラハムを選び、イスラエルの民をエジプトから救い出しました。
その時、彼らは、自分たちを造り、エジプトから救い出してくださった神様を、見える形の像に刻み、拝もうと、アロンに金の子牛の像を造らせたのです。
この出来事の中に、罪の本質が示されているのです。
聖書が語り、教える「罪」とは、的外れです。神との関係がズレた状態です。
これを聖書は「罪」と呼び、この罪によって、人間は、神を畏れる心を失い、抑止力がなくなり、罪を犯し、主の目に悪を行うようになるのです。
罪とは、神を神とせず、神ならぬものを神とし、神を畏れずに生きることです。
神を畏れ、その戒めを守ること。
神を畏れて生きることが、神に造られた人間のあるべき姿なのです。
神様は、私たちが神を畏れて生きる者となることを願っています。
神様は、神を畏れ、その戒めを守り、幸いな人生を歩むために、モーセを通し、律法(神のルール)を授けられたのです。
出エジプト記20章では、こう語られています。
20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
神様は、御自分をおいて、ほかに神があってはならない、と言いました。
だから、神が造られた被造物、自然界にあるものを神とすることも、人間が偶像を造り、それにひれ伏し、仕えることも禁じられたのです。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
神様がアブラハムを選び、イスラエルの民を選び、また、イエス・キリストを通し、私たちを選ばれたのは、神を畏れて生きる人ためなのです。
しかし、彼らは、主の戒めを破り、神を畏れず、主の目に悪を行います。
その結果、主の怒りと裁きを受け、元の木阿弥、エジプトの奴隷時代に戻り、バビロンの地で捕囚の民となってしまった。
これが、列王記、歴代誌までのイスラエルの歴史なのです。
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
この御言葉、この約束は真実です。
神様は、父祖の罪を子孫に、三代、四代まで問われるお方です。
しかし、その子や子孫が、主に立ち帰り、主を愛し、主を畏れ、主の戒めを守るならば、幾千代にも及ぶ慈しみを与える、と約束して下さるお方です。
主は、彼らを見捨てず、主を愛し、戒めを守る者に慈しみを注がれたのです。
彼らは、バビロン捕囚から解放され、再び、エルサレムに帰り、もう一度、神殿を建て直し、城壁を築き直し、信仰のズレを直していくのです。
それが、エズラ記やネヘミヤ記の内容なのです。
さて、聖書日課は、9月からネヘミヤ記を読んでいます。
ネヘミヤは、神を畏れて生きる人のモデルです。
彼は、主を愛し、主に仕えるように、ペルシアの王に仕えていました。
その姿は、エジプトの地で総理大臣に抜擢されたヨセフに似ています。
主がヨセフと共におられたように、ネヘミヤと共にいて、うまく事が運びます。
彼は、ユダの民が不幸の中にあり、城壁が崩れたままであることを知ります。
彼は、嘆き祈り、王の憐れみを受けられるように祈り、その祈りが適うのです。
2章では、ネヘミヤは、ペルシア王の憐れみを受け、後ろ盾と協力を得て、エルサレムに帰還し、城壁工事を始めていきます。
ユダの民は、ネヘミヤの言葉に発奮し、工事を始めます。
しかし、その直後から敵の妨害が始まる。これが3章の内容でした。
4章では、敵に妨害され、神に祈って対処するネヘミヤの姿があります。
ここを黙想し、金曜日に御言葉メールを送り、週報の裏面にも載せいてます。
私たちが主に従い、御心を行い、恵まれると、反対や妨害、妨げを経験します。
福音を伝え、恵みを受け、祝福されると、冷や水を浴びることがあるのです。
これは偶然ではなく、聖書的に見れば、霊的必然なのです。
この霊的必然は、ネヘミヤだけではなく、エズラも、ペトロやパウロ、弟子たちも、クリスチャンも、神を畏れ、主の御心に従って歩もうとするときに、妨げや妨害、反対や迫害が起こり、心を挫こうとする目に見えない力が働きます。
彼らも心が挫け、「城壁の再建などわたしたちにはできません」と言いました。
その時、ネヘミヤは神に祈り、「敵を恐れず、御名を唱えて戦え、わたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる」と語り、彼らを励ましたのです。
教会は、エクレシア。神に選ばれ、主を畏れて生きる者となるようにと、神に呼び集められた者の集いです。
わたしたちは、主のもとに集まり、主が私たちのために戦い、勝利を与え、わたしたち共に働いて、万事を益に変えてくださる世界を見るようになります。
これらも偶然の出来事ではなく、クリスチャンの霊的必然だと言えます。
さて、イントロが長くなりましたが、今日から5章に入ります。
もう一度、5章1節からお読みます。
5:1 民とその妻たちから、同胞のユダの人々に対して大きな訴えの叫びがあがった。
5:2 ある者は言った。「わたしたちには多くの息子や娘がいる。食べて生き延びるために穀物がほしい。」
5:3 またある者は言った。「この飢饉のときに穀物を得るには畑も、ぶどう園も、家も抵当に入れなければならない。」
5:4 またある者は言った。「王が税をかけるので、畑もぶどう園も担保にして金を借りなければならない。
5:5 同胞もわたしたちも同じ人間だ。彼らに子供があれば、わたしたちにも子供がある。だが、わたしたちは息子や娘を手放して奴隷にしなければならない。ある娘はもう奴隷になっている。どうすることもできない。畑とぶどう園はもう他人のものだ。」
神に選ばれ、神を畏れて生きる時、主の御心に従って歩む時、わたしたちは内側の問題、自分の内面の問題、罪に気づかされます。
これも神を畏れて生きる者の身に起こる、霊的必然なのです。
ネヘミヤは、一難去ってまた一難ではなく、一難のさなかにまた一難です。
敵と戦い、城壁工事を続けているさなかに、内側に問題が生じたのです。
民とその妻たちから、同じユダヤ人に対する抗議の声、訴えが起こったのです。
ネヘミヤがエルサレムに帰還したのは、ユダの人々が不幸の中にある、という知らせを聞いたからです。1章には、こう記されていました。
1:3 彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」
ユダの民が不幸の中にあり、恥辱を受けている。
敵の手から彼らを守るために、城壁の修復工事を始めたのです。
この時、民とその妻の叫びを聞いて、彼らが不幸で、恥辱を受けていたのは、敵に攻撃だけでなく、同胞の民、内側に問題があることを知ったのです。
帰還したユダの民の中に貧富の差が広がっていました。
貧しい者たちは、穀物を買うお金がありません。
息子や娘を奴隷にし、家を抵当に入れ、畑やぶどう畑を担保にお金を借り、その利息を払えず、苦しんでいたのです。
5:6 この嘆きと訴えを聞いて、わたしは大いに憤りを覚え、
5:7 居たたまれなくなって貴族と役人をこう非難した。「あなたたちは同胞に重荷を負わせているではないか。」わたしはまた大きな集会を召集して、
5:8 言った。「わたしたちは異邦人に売られていた同胞のユダの人々を、できるかぎり買い戻した。それなのに、あなたたちはその同胞を売ろうというのか。彼らはわたしたち自身に売られることになるのに。」彼らは黙りこみ、何も言えなかった。
居たたまれなくなって、とあります。
これは、感情を抑えきれず、ブチ切れて、彼らを非難したのではありません。
新改訳では「わたしは十分に考えたうえで」
共同訳では「よく考えた末」となっています。
英語の聖書は、I consulted with myself(自分自身と相談し)と訳されています。
ネヘミヤは、祈りの人です。
彼は、主に祈って、十分に考え、準備し、行動する人です。
彼は、良く祈り、考え、貴族や役人に向かって、「あなたたちは同胞に重荷を負わせているではないか」と、彼らがしていることを非難したのです。
さらに、ネヘミヤは大きな集会を開き、彼らに「異邦人から解放された民を、再び、奴隷として売ろうとするのか。彼らを解放することが、わたしたちの務めであり、あなたが売った彼らを、私たちが買い戻すことになるんだぞ、と言ったのです。
これを聞いて、彼らはチーンとなって、何も言えず、黙り込んだのです。
5:9 わたしは言った。「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。
今日の御言葉です。
神を畏れて生きる
今日のテーマです。
あなたたちの行いはよくない
新改訳では「あなたがたのしていることは良くない」
共同訳では「あなたたちがしていることは間違っている」
ネヘミヤは、カッとなって、感情的に彼らを非難したのではありません。
彼は、神に祈り、真剣によく考え、御心に適うことを提案します。
敵である異邦人に辱められないために、
共同訳では、「そしられないために」となっています。
彼らのしていることは、異邦人の目には、物笑いの種、あざけりの的です。
異邦人から解放され、買い戻された民を、再び、奴隷にしているからです。
これは、証にならない行為です。
ペルシア王の心を動かし、彼らを解放し、帰還させた神様の御心にも反します。
あなたたちの行いはよくない
あなたたちは間違っている。
この言葉に、返す言葉がなかったのです。
神様は、聖書を通し、預言者を遣わし、イエス様を遣わし、聖霊を遣わし、人を用い、敵や問題を用い、「あなたたちの行いはよくない」と語られるお方です。
私たちは、御言葉を黙想し、説教を聞き、また、いろんな問題や人の言葉を通し、「あなたの行いは良くない」と、主が語る声に耳を傾ける必要があります。
ネヘミヤは、神を畏れて生きる民として、態度を改めなければならない。
そこで、自ら進んで、神を畏れて生きる者としての模範を示したのです。
5:10 わたしも、わたしの兄弟も部下も金や穀物を貸している。わたしたちはその負債を帳消しにする。
5:11 あなたたちも今日あなたたちに負債のある者に返しなさい。畑も、ぶどう園も、オリーブ園も、家も、利子も、穀物も、ぶどう酒も、油も。」
ネヘミヤは、民の苦しみを知り、自分や兄弟、部下が貸した負債を帳消しにする、と言って、「あなたたちもそうしなさい」と言いました。
すると、彼らは、ネヘミヤに答えます。
5:12 彼らはそれに答えた。「返します。何も要求しません。お言葉どおりにします。」わたしはこの言葉どおり行うよう誓わせるために祭司たちを呼んだ。
お言葉どおりにします
彼らも、ネヘミヤに倣い、土地や畑を返し、利息も要求しないと言ったのです。
さらに、ネヘミヤは、祭司を呼び、この約束を果たすように誓わせます。
5:13 わたしはまた衣の折り重ねたところを振るいながら言った。「この約束を守らない者はだれでも、このように神によってその家と財産から離され、振るい落とされるように。このように振るい落とされて無一物となるように。」会衆は皆で、「アーメン」と答え、神を賛美した。民はその言葉どおり行った。
ここでのアーメンは、すごいアーメンですね。
この約束を守らない者は、神によって家と財産から離され、一文無しになるように」という言葉に、アーメンと言ったのです。
みなさん。神を畏れていなければ、このアーメンは簡単に言えます。
守らなくても、実行しなくても、播州弁で、べっちょない、平気なのです。
しかし、彼らは、神を畏れ、アーメンと言って、神を賛美し、その言葉どおりに行ったのです。
彼らは、ネヘミヤに非難され、彼を恐れ、仕方なく従ったのではありません。
彼らは、神を畏れ、この行いは良くなかった。
間違っていたと気づいて、生き方、行動を改めたのです。
これが神を畏れて生きる者の姿です。
わたしたちが聖書を読み、御言葉を黙想し、説教を聞き、あるいは、いろんな問題や悩みを通し、自分の行いは良くない、自分は間違っていた、と気づくとき、気づかされる時があります。
その時、大切なことは、アーメンと、告白し、主を讃美し、主に従うことです。
これが神を畏れて生きる者の歩みです。
神を畏れて生きる時、そこに神の御業が起こり、証が生まれます。
まさにこれが、復活の主と出会い、主の言葉を聞いて、自分の行いは良くない、間違っていた、と気づいて、生き方を改めたパウロの姿であり、私たちが倣うべき姿なのです。
主は生きて働いています。
主を畏れて生きることが、人間の本分であり、私たちが模範となり、世に示す生き方なのです。
今週も、天から見ておられる神を畏れ敬い、
主の言葉に「アーメン」と告白し、神を賛美し、従う者でありますように。
御名によって祝福します。
お祈りいたします。